2011年7月23日土曜日

気づかないネガティブ意識

ネガティブ意識は、自分の意識に注意していないかぎり、普通の人ならば誰にでも生まれやすいものです。もう少し詳しく、ネガティブ意識には、どんなものがあるのか、どんな意識なのか検討していきましょう。その意識内容を知ることで、そうならないよう気をつけることもできます。


例えば、誰か(他者)を冷ややかに相手を見下すことは、ネガティブ意識を生み出します。言葉を変えれば、相手を見下すということは、相手を馬鹿にしているということでもあります。簡単に他者に対して、そういうことをしてしまう人もいます。気付かないくらい無意識に相手を見下すことをやってのけてしまう人もいます。このような意識もネガティブ意識を生み出します。
こういう場合は、身に染み付いた無意識的な行動ですから、自分の高慢さに気づいていません。
自分で気づかなくても、しかし相手は気づきますから、相手を傷付けます。この意識状態はネガティブな意識です。

他者を見下し、相手を軽視することは、次のような意味を持っています。

・他者(相手)に敬意を払っていないこと
・他者(相手)を大切にしていないこと
・他者(相手)に価値を認めていないこと
・他者(相手)の努力を認めていないこと
・他者(相手)の考えを認めていないこと
・他者(相手)の想いを理解しようとしていないこと
・他者(相手)の立場を考えていないこと
・他者(相手)の見方を無視していること

外面だけはどんなに立派そうに格好をつけてみても、善人のような優しそうな顔をしていたとしても、他者(相手)を軽視してしまうことは、他者(相手)を大切にはしていないといえます。
ディベートが得意で議論で相手をやり込める技術にたけていても、他者(相手)を見下していては相手の信頼を得ることはできません。相手を軽視していることは、相手の価値を認めていないことだからです。
それはつまり、他者(相手)への愛とは逆の行為(愛のない状態)といえます。他者(相手)への愛のない状態は、ネガティブ意識そのものです。
愛と逆のものは、憎しみではなく、愛がない状態のことです。憎しみは、また別の意識の状態であり、憎しみの逆は、憎しみがない状態です。


他者を軽視することは、自分には次のような意味を持っています。

・自分自身に敬意を払っていないこと
・自分自身を大切にしていないこと(愛していない)

他者(相手)を見下すことは、大した理由のないプライドの高さがあります。またその裏側には、何か根深い自己卑下も存在していることが多いのです。
相手への軽視は、相手への愛のない状態のことです。これは自分も本当には愛していないのではないでしょうか。


相手への軽視とは、自分の心の中にある闇の意識(つまりネガティブ意識)です。この闇の意識(ネガティブ意識)は、ほうっておくと、どんどん発展していきます。

他者を軽視する意識 → 利己的な意識 → 悪意を持つ意識 → 悪と呼ばれる行為を行える意識

他者を傷つけるような行為は、一般に「悪」と呼ばれます。「悪」にははっきりとした定義があるわけではなく、通常は自分や他者を傷つける行為を指しています。
ネガティブ意識が強くなれば、一般に「悪」と呼ばれるような行為すら躊躇なく行えるようになります。「悪」を行うことは、他者を傷つけるだけでなく、自分の潜在意識、深層意識も傷つけ、次第にネガティブ意識が強くなっていきます。
そうすると自分の深層意識が悪の意識(強いネガティブ意識)に染まり始めます。


仏教などの思想では、自分の行うすべての行為には反作用があります。自分の行う行為は、深層意識の中に、いわば痕跡のようなものを残します。その深層意識の中にある痕跡が反作用を生み出します。その反作用のことをカルマ(行為を意味する)とか、仏教用語で「業」と呼んでいます。カルマとは宿命ではなく、自分の行為の結果としての反作用のことです。
悪業を行えばその反作用として、それにふさわしい結果をいつか(輪廻思想があり来世も考えます)招くことになります。
これに対して他者を愛し助ける行為は、善業と呼ばれます。これはいつか良い結果を招くというだけでなく、自分自身の解脱や修行を助けます。
まず他者を愛し助ける行為を行うことは、ネガティブ意識に染まらずポジティブ意識を保つために重要です。

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