2011年7月19日火曜日

ポジティブ意識になるための方法(2)

四無量心(慈・悲・喜・捨)についても説明しておいたほうがよいでしょう。

誰でも自分の幸せをまず考えますから、慈悲の瞑想も自分の幸せを祈るところからはじめています。どのような人がいても、人間はあくまでも自分を中心として生きるしかありません。
自分の幸せも健康も願わずに、他の人の幸せと健康だけ願える人はまれでしょう。このようなことができる人は、まず普通人ではいないでしょう。
自分を愛するがゆえの人を愛する行為であり、自分の健康を願うがためゆえの人の健康をも祈るというのが、普通の人の正直な心です。普通の人の意識では、まず自分のことから始めるしかないのです。
したがって、まず自分が幸せになるように祈ります。そして自分の幸せのためには、他の人の幸せも祈ることが必要であることを知っていくのです。ですから慈悲の瞑想では、最初に自分の幸せを祈り、自分の中にやさしい心を作ることからはじめています。


仏教では、キリスト教のような「愛」という言葉を用いません。本来のキリスト教での「愛」は、無私の愛でしょうが、「愛」という言葉にはそれ以外の意味も含んでいます。
キリスト教では一言で「愛」といいますが、夫婦の愛、男女の愛、親子の愛では当然ちがっています。男女の愛にも、エロティックな愛もあれば、そうでない愛もあります。男女の愛でも、ただ愛という一語では表現できない微妙な差があります。このように、同じ「愛」という言葉を使っても、意味は使う文脈でいろいろと異なっています。
同じ「愛」という言葉でも、その意味は曖昧です。「愛」には、不確実性、多様性、複雑性などの曖昧さがあるのです。
仏教では「愛」という言葉を使わず、慈・悲・喜・捨の四つの感情として、人間の持つ自然な感情を育てていくことを目指しているのです。

ちなみに漢訳仏教経典では、「愛」という言葉がでてくると、キリスト教のような無私の愛という意味ではなく、「渇愛、執愛、愛執」というような、執着や愛着の意味で用いられています。漢訳経典を読む場合には、意味を取り違えないよう注意が必要です。


四無量心(慈・悲・喜・捨)の説明をしましょう。どうしても漢訳された、慈・悲・喜・捨という感じの意味に捕らわれてしまいますが、もともとの意味はつぎのようなことを指しています。


1.慈
()慈は、慈しみや友情にちかい感情のことです。
他の人と仲良くしたいという感情です。人と仲良くしたい、多くの人と楽しく暮らしたいと思う感情、それが慈です。

2.悲
悲は、哀(憐)れみの感情です。
憐憫の感情であり、悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情です。だれかが困っていればすぐ助けに行ってあげる、そのときの助けに行くのは、誰にとっても気持がいいはずです。困っている人を助けてあげたいという感情は、人間であればいつも必要な感情です。

3.喜
喜は、ともに喜ぶ感情です。
人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情です。
しかし自分の回りのだれかが仕事が上手くいったり、人が大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりすると、すなおには喜べず、嫉妬という感情に苦しめられます。
この嫉妬という感情は持たないほうがいいものです。それだからこそ人が成功したならば、「ああ、よかった、よかった」とな喜ぶ感情を抱けるようにするのです。

4.捨
()捨は、捨てさるという意味よりも、平等で冷静な感情を表します。
人間はどんな物ごとに対してもいろいろな感情を抱きます。そのいろいろな感情に流されないように戒めて、生命のすべてを見極める心のことです。
他の人が怒っていたり、悪いことをしても、そういう人たちに翻弄されてはいけません。様々な人がいますが、それらを放っておくことも大切なのです。悪をこらしめるというのではなく、ただ冷静な心になって、平等に見守っている、それが捨です。


四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想は、これら四つの感情をべつべつに育てることが目的です。
これらの四無量心(慈・悲・喜・捨)の感情は、私たちが生まれついて持っていたものではありません。瞑想によって、この四つの感情を習得し育てていくために、四無量心の冥想法があります。
これを簡略化したものが慈悲の瞑想です。

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