2011年7月9日土曜日

ポジティブ意識とネガティブ意識(5)

スピリチュアルな本の中で述べられている、宇宙的なポジティブ側(ポジティブな存在)とネガティブ側(ネガティブな存在)の争いというのも、簡単に決着が付くようなことではありません。

ポジティブ側とは、いつでもできると考える、積極的な心構え(ポジティブ思考)を持った人のことではありません。ネガティブ側とは、いつでもできないと考える、消極的な心構え(ネガティブ思考)を持ち、落ち込んでいる人のことではありません。ポジティブ思考の積極的な人と、ネガティブ思考の消極的な人が争えば、積極的なポジティブ思考の人が圧倒的に勝ってしまうことでしょう。そもそも、これでは勝負にすらならないのではないでしょうか。

ポジティブな存在とは、普通の意味のポジティブ思考をしている存在ではなく、ポジティブな意識を持った存在のことを指しています。ネガティブな存在とは、ネガティブな意識を持った存在です。
他者への愛を感じる利他的なポジティブ意識と、自己への愛を強く持つ利己的なネガティブ意識とでは、持っている意識から生じる基本的な考え方が違うので、話し合っても合意することはありません。


ポジティブな存在は、他者と一体と感じている意識状態であり、積極的に世界を変えようと考えています。彼らの考える理想世界は、あくまで各人の自由意志を尊重し、強権的な支配を嫌います。強権的な支配ではなく、各人、一人ひとりの考えや行動を尊重するようにした世界を理想とします。
ネガティブな存在は、他者とは分離されていると感じている意識状態であり、彼らも積極的に世界を変えようと考えています。彼らの考える理想世界は、各人の自由意志は制限し、ある程度は強権的に支配することによって、強制的にでも世界に平和をもたらそうというものです。全体を優先するため、ここには一人ひとりを尊重するという考えはありません。

利他的なポジティブ意識の側は、自分たちの考え方が正しいことを、すべてと一体となった自分の体験から感じています。
利己的なネガティブ意識の側は、分離の体験しかないため、強権的な支配にこだわり、自分の行動は平和をもたらすための正義の行動だと考えています。

どちらも自分の経験から、自分こそが正しい、正義であると考えて行動しています。
どちらも自分が正しいと考えているうえに、本質的な意識状態の違う相手を、何の体験もないまま、話や交渉によって説得することはできません。


では、ポジティブ意識からネガティブ意識には、簡単になれるのでしょうか。ポジティブ意識を持っていたとしても、何かの出来事から利己的な意識状態が強くなれば、ネガティブな意識状態となります。何かの出来事がきっかけとなって、ネガティブな意識状態となってしまう場合があります。
たとえば、恐怖に捕らわれた、不安におののいた、嫌なことを無理やり押し付けられた、無理やりさやらさられた、人に騙された、人からいいように利用された(操作された)、怒りを感じるようなことをされた、など自分にとって不愉快な出来事がそのきかっけとなりえます。自分でも気づかないうちに、いつの間にかネガティブな利己的な意識状態となってしまうことは、普通の人でもよくあることでしょう。
この状態がずっと続くようだと、ダークサイドに落ちた状態となります。しかしダークサイドに落ちたからといって、目に見えるようなものではありませんし、自分でも気づかないかもことが多いのではないでしょうか。人は自分の意識には、気づきにくい者です。
本質的な行動の原理が、他者のことを意識することがなくなり、自己のためだけにあるということになるだけです。

では逆に、ネガティブ意識からポジティブ意識になれるのでしょうか。なれますが、こちらの方がポジティブ意識からネガティブ意識になるよりも、その移行は難しいでしょう。
かなり意識して、自分が今まで持ち合わせていないような他者を思いやるという、ポジティブな意識を持とうとしなければなれません。
何の努力もしないで、ネガティブ意識からポジティブ意識になることは、普通はないでしょう。


ネガティブ意識でも、利己的なポジティブ思考を持って活躍する人が多いというような現代社会では、ネガティブ意識の人たちが減少していかないのは、当然のことではないでしょうか。むしろネガティブな意識状態の人たちは、自分の野望の実現ためにポジティブな思考を持ち、ますます強くなっていっているのではないでしょうか。
これが現代社会の状況なら、世界がある時点でアセンションして、ばら色の社会が生まれることなど、とても信じられることではないでしょう。


さて自分の意識が「ポジティブ意識かネガティブ意識か」「ポジティブ側かネガティブ側か」を選ぶのは、その人の自由意志です。単純に何も考えないならば、普通はポジティブ側と呼ばれる意識でいたいと思います。利己的な考えが非常に強ければ、ネガティブ側を選ぶかもしれません。
自分の自由意志といっても、それほど簡単には自分が選んでいる意識が、ポジティブ側を選んでいるのか、ネガティブ側を選んでいるのか、どちらを選択しているかを認識できません。

ポジティブ側にいようと表面意識で思っていても、何かのきっかけで利己的な意識が強くなれば、自分ではポジティブ側にいたはずなのに、いつのまにかネガティブ側に移行してしまっています。知らないうちに、ポジティブ側ではなくなり、ネガティブ意識の人間となってしまうのです。ポジティブ側とネガティブ側の境目辺りの意識状態は、どちらにもなりうる微妙な意識であると思われます。
ネガティブ意識になるきっかけとしては、悲惨な出来事に対する恐怖や怯え、ひどい仕打ちに対する恨み、憎しみや怒りなどを抱くと、どうしても利己的な心理状態になりやすく、その影響が潜在意識に深く入ってきます。こういうことから、恐怖、恨み、憎しみ、怒りなどはネガティブ意識(利己的な心理状態)を呼び起こしてしまいます。
恨んで当然の状況でも、憎んで当然の状況でも、怒りを感じて当然の状況でも、恐れを感じて当然の状況でも、それでもネガティブ意識にならずに、ポジティブ意識のままでいること、これが求められています。ですが、これは実際にはかなり難しいことです。かなり精神的に強い人か、心の修行を積んだ人でないと影響を受けないようにすることは難しいものがあります。

利己的な意識が弱くなり、利他的な意識(自分と同じように他者も扱うという意識)が強くなれば、次第に意識は、ポジティブ側となってきます。でもこれは、どちらかというと努力しなければなれません。努力することにより、ポジティブ側にいようとするならば、他者との共感や、他者への利他的な思いやりを強くしていくことが求められます。
ポジティブ意識とは、ポジティブ思考(ポジティブ・シンキング)のことではないので、いくら普通の意味でのポジティブに考えよう、ポジティブに行動しようとしても、ポジティブ意識にはなれるものではありません。
このようなことから、意識をポジティブ側に置いておくためには、修行や瞑想などの昔からある伝統的な努力も必要かも知れません。


利他的な心を持ったポジティブ意識の存在だけの世界ならば、すでにこの世は天国となっているでしょう。
しかし現実は、そうではありません。ポジティブ意識の人間とネガティブ意識の人間とが、一緒に交じり合って、生存しているのがこの地球世界です。
どちら側にも、自分の行っていることが正しいと思えるような論理はありますし、利己的なネガティブ意識でも、社会で成功者として活躍できるのです。ネガティブ意識の成功は、あくまで自分が中心となるものですが。


このように考えてみると、ポジティブ側とネガティブ側との違いとは何か、その意識の違いはどこにあるのかが分ってきます。
人間の持つポジティブ意識とネガティブ意識の違いについて、明確に区別ができるようになってくるのです。

すべてと統合されたという人間の意識が、ポジティブ意識の元になっています。
すべてから分離されたという人間の意識が、ネガティブ意識の元となっています。
ポジティブ意識とネガティブ意識とは、統合された人間の意識と分離された人間の意識を元にして、人間の意識を2つに類型分けしたものといえます。

ポジティブ意識は統合されたという人間意識であり、すべての生命意識と言い換えることができます。
ポジティブ意識の者は、個人の自由意志を尊重しますので、他者を支配しようとはしません。自分だけが良ければというような意味ではない、他者を自分と同じように尊重しながらの個人主義的な社会になります。

ネガティブ意識は分離されたという人間意識であり、他者への支配意識と言い換えることができます。
ネガティブ意識の者は、すべてから分離されているため、自分とは違う他者を支配しようとします。すべてから分離されているため、自分が主役であり、創造主になれるような、自分の思い通りの世界を作っていこうとします。ネガティブ意識の作るその世界では、必然的に自由は制限され、平和とはいっても、力によって強制される平和であり、強権的な支配社会となります。誰かの意見に強権的に従わせるような全体主義的な社会となるでしょう。

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