2011年7月25日月曜日

ポジティブ意識とポジティブ思考の関連性

ポジティブ意識とポジティブ思考の違い、ネガティブ意識とポジティブ思考の違いについては、説明しました。
この意味合いの違う、ポジティブ意識とポジティブ思考ですが、確かに意味合いが違うのですが、関連する部分もあります。ポジティブ意識の状態の時にはポジティブ思考がしやすく、ネガティブ意識の状態の時にはネガティブ思考に陥りやすいということがあります。そのために混同されることも多かったと思います。


ポジティブ意識の状態の時には、ポジティブ思考がしやすいということがあります。
ポジティブ意識のときには、ポジティブな感情(明るい、楽しい、うれしい、喜び、愛しい、好き、幸せ)になっていることが多いと思われます。
誰でも、嬉しいときや幸せなときは、世界全体が幸せに輝いていて、一緒にいてくれるように感じます。幸せなときには、あんまり自分のこと考えていません。その上、何でも前向きに積極的に考えられます。
これは、嬉しいときや幸せなときは、利他的なポジティブ意識(利他的な全体的な意識)が高まることを表しています。この状態の時には、ポジティブ思考(前向きな、積極的な心構え)もしやすいはずです。

ネガティブ意識の状態の時には、ネガティブ思考に陥りやすいということがあります。
ネガティブ意識のときには、ネガティブな感情(暗い、悲しい、寂しい、恨み、憎しみ、嫌い、不幸せ)が生じやすく、その感情に捕らわれていることが多いと思われます。
悩みの中にいるときや恨んでいるときには、自分のことや自分の都合ばかり考えていることが多いのではないでしょうか。悩みの中にいるときには、独りきりです。自分や自分の都合を優先して考えると、人間は不幸を感じるようにできています。
これは、悩んでいるときや恨んでいるときは、利己的なネガティブ意識(利己的な個別的な意識)が高まることを表しています。この状態の時には、ネガティブ思考(後向きな、消極的な心構え)になりやすいものです。

このように、ポジティブ意識(利他的な全体的な意識)と、ポジティブ思考(前向きな心構え)は違いますが、関連性はあるのです。そのため、混同されることも多かったと思われます。


今の世の中は、全体的にはネガティブ意識が強いような傾向があると思われます。前向きな心構えのできるネガティブ意識の強い人が、社会でも強い立場に立っているのではないでしょうか。この社会の状況を憂えている人は多いと思います。

ニューエイジの世界では、今の社会は一時的に悪くなるとしても、そのうちいずれ理想の世界が訪れるような話もあります。それが果たして本当なのかどうかは知りませんが、自分が死んで何十年、何百年後のことでは、どういう社会なのか考えてもあまり意味がありません。
そんなはるか先の世界のことよりも、今現在の状況がネガティブ意識の強い世界だということの方が、自分自身に与える影響という点からは重要です。
日本においても、毎年ホームレスの人が寒さなどで何人も死んでいっていますが、ほとんどの人は気にかけません。本当に困っている人を助ける人もまれです。株などで相当儲けたような金持ちでも、慈善事業などにあまり寄付はしません。
こういう社会状況の中で、自分の意識をポジティブ意識にし、その状態を保っていくためには努力も必要になります。


自分の意識をポジティブ意識に保つための方法の一つが瞑想です。しかしながら瞑想をはじめても、なかなか宇宙との合一、すべてとの合一のようなサマーディ状態には入れません。このような状態には、かなりの努力をしても一生入れないかもしれません。誰でもすぐにサマーディに入れるなら、ポジティブ意識を持つこともたやすいことです。(ただしサマーディ状態になったからといって、仏教でいうニルヴァーナではありません。)
最初は誰でも取り組める初歩的な段階から始めるしかありません。そのために慈悲の瞑想などがあります。

2011年7月23日土曜日

気づかないネガティブ意識

ネガティブ意識は、自分の意識に注意していないかぎり、普通の人ならば誰にでも生まれやすいものです。もう少し詳しく、ネガティブ意識には、どんなものがあるのか、どんな意識なのか検討していきましょう。その意識内容を知ることで、そうならないよう気をつけることもできます。


例えば、誰か(他者)を冷ややかに相手を見下すことは、ネガティブ意識を生み出します。言葉を変えれば、相手を見下すということは、相手を馬鹿にしているということでもあります。簡単に他者に対して、そういうことをしてしまう人もいます。気付かないくらい無意識に相手を見下すことをやってのけてしまう人もいます。このような意識もネガティブ意識を生み出します。
こういう場合は、身に染み付いた無意識的な行動ですから、自分の高慢さに気づいていません。
自分で気づかなくても、しかし相手は気づきますから、相手を傷付けます。この意識状態はネガティブな意識です。

他者を見下し、相手を軽視することは、次のような意味を持っています。

・他者(相手)に敬意を払っていないこと
・他者(相手)を大切にしていないこと
・他者(相手)に価値を認めていないこと
・他者(相手)の努力を認めていないこと
・他者(相手)の考えを認めていないこと
・他者(相手)の想いを理解しようとしていないこと
・他者(相手)の立場を考えていないこと
・他者(相手)の見方を無視していること

外面だけはどんなに立派そうに格好をつけてみても、善人のような優しそうな顔をしていたとしても、他者(相手)を軽視してしまうことは、他者(相手)を大切にはしていないといえます。
ディベートが得意で議論で相手をやり込める技術にたけていても、他者(相手)を見下していては相手の信頼を得ることはできません。相手を軽視していることは、相手の価値を認めていないことだからです。
それはつまり、他者(相手)への愛とは逆の行為(愛のない状態)といえます。他者(相手)への愛のない状態は、ネガティブ意識そのものです。
愛と逆のものは、憎しみではなく、愛がない状態のことです。憎しみは、また別の意識の状態であり、憎しみの逆は、憎しみがない状態です。


他者を軽視することは、自分には次のような意味を持っています。

・自分自身に敬意を払っていないこと
・自分自身を大切にしていないこと(愛していない)

他者(相手)を見下すことは、大した理由のないプライドの高さがあります。またその裏側には、何か根深い自己卑下も存在していることが多いのです。
相手への軽視は、相手への愛のない状態のことです。これは自分も本当には愛していないのではないでしょうか。


相手への軽視とは、自分の心の中にある闇の意識(つまりネガティブ意識)です。この闇の意識(ネガティブ意識)は、ほうっておくと、どんどん発展していきます。

他者を軽視する意識 → 利己的な意識 → 悪意を持つ意識 → 悪と呼ばれる行為を行える意識

他者を傷つけるような行為は、一般に「悪」と呼ばれます。「悪」にははっきりとした定義があるわけではなく、通常は自分や他者を傷つける行為を指しています。
ネガティブ意識が強くなれば、一般に「悪」と呼ばれるような行為すら躊躇なく行えるようになります。「悪」を行うことは、他者を傷つけるだけでなく、自分の潜在意識、深層意識も傷つけ、次第にネガティブ意識が強くなっていきます。
そうすると自分の深層意識が悪の意識(強いネガティブ意識)に染まり始めます。


仏教などの思想では、自分の行うすべての行為には反作用があります。自分の行う行為は、深層意識の中に、いわば痕跡のようなものを残します。その深層意識の中にある痕跡が反作用を生み出します。その反作用のことをカルマ(行為を意味する)とか、仏教用語で「業」と呼んでいます。カルマとは宿命ではなく、自分の行為の結果としての反作用のことです。
悪業を行えばその反作用として、それにふさわしい結果をいつか(輪廻思想があり来世も考えます)招くことになります。
これに対して他者を愛し助ける行為は、善業と呼ばれます。これはいつか良い結果を招くというだけでなく、自分自身の解脱や修行を助けます。
まず他者を愛し助ける行為を行うことは、ネガティブ意識に染まらずポジティブ意識を保つために重要です。

2011年7月21日木曜日

ポジティブ意識になるための方法(3)

ポジティブ意識になるために仏教の修行(瞑想)などを行う場合を考えてみましょう。

瞑想方法が発達しているのは、仏教(南伝仏教、チベット仏教)、ヨーガ(インドの各種修行)などです。修行としての瞑想以外にも、各種の瞑想法が工夫され伝えられています。

仏教の修行の目的は、ニルヴァーナへ到ること(解脱)です。一般的なポジティブ意識になることを目的とはしていません。そのため人生最大の目的がニルヴァーナ(解脱)であるという発想がないと、仏教の修行自体行う意義を見出すのが難しいかも知れません。
ヨーガなどのインドの多くの宗教的な修行の目的も解脱です。ヨーガやヴェーダンタ哲学関連の修行は仏教ではないので、解脱とは言いますがニルヴァーナへ到るというような言い方はしません。
仏教的な見地からみれば、仏教のニルヴァーナとヨーガなどのインドの宗教の解脱とは意味が違います。しかしその違いはどの程度のものか、どこが違うのか、違いは微妙であり、判断には高いレベルの修行成果が求められます。

一般的な仏教の修行などを行うにしても、その修行の結果が出てくるまでには、かなりの長い時間がかかるのが普通です。はじめてすぐに何らかの結果が出てくるような人はまれです。出家者でも、何年も、あるいは何十年も、一生かけても到達できるかどうかというようなものです。ニルヴァーナへ到ることは仏教の究極の目的ですから、これに価値を見出す場合には人生をかけなければできないのではないでしょうか。
一般の人が、ポジティブ意識になるためにする方法としては、かなりハードルが高く、取り組むことが難しいものになってしまいます。


瞑想でポジティブ意識になるといっても、瞑想方法にはいろいろなものがあります。どれが効果のあるものなのかの見極めがかなり難しいのです。
信頼できる先生について学ぶのでなければ、効果的な瞑想法を学べません。でなければ、何年もかけて瞑想を行っても、あまり効果がなかったということにもなりかねません。
座禅も瞑想法の一種といえますが、普通の人が取り組んで何かの効果をあげるには、少し困難があるようにも思われます。

瞑想をはじめても、宇宙との合一状態のようなサマーディにまで入れる人はまずいません。サマーディに入れるほどの深い瞑想状態に到達することは、何十年も瞑想を実践していても難しいことです。いつでもサマーディに入れるレベルまで到達できれば、ポジティブ意識を持つこともたやすいでしょう。ですが普通の人は、そうはいきません。
サマーディに到るような瞑想もするべきかもしれませんが、ポジティブな意識を持つためであれば、あまりに時間がかかりすぎます。そもそもサマーディには入れないかもしれません。

普通人は、もう少し誰でも取り組めることから、始めるしかありません。そのために慈悲の瞑想などがあります。これならば誰でも少し努力すればできることです。
この瞑想は自分の慈悲心を増大させるだけでなく、心を癒す働きもあります。


ポジティブ思考をしようと思っても、なかなかうまくいかない場合があります。心の中に、いろんなわだかまりやこだわり、悩みや怒り、恨みなどを抱えていると、なかなか前向きな思考ができません。
心の中に、いろいろな悩み、苦しみ、わだかまり、怒り、恨み、憎しみ、悲しみなどの感情がある場合、なかなか深い瞑想には入れません。
そんなときには、無理にポジティブ思考をしようをせず、まず視点を変えてみることが大事です。

そのような場合は、深い瞑想に入れるようになる前に、まず自分自身の心を癒すことからはじめましょう。顕在意識(表面意識)より深いところにある、潜在意識、深層意識にある心を癒しましょう。
慈悲の瞑想などを行い、少しでもポジティブ意識の状態になるように努力してみましょう。
少しでもポジティブ意識の状態になってからなら、ポジティブ思考することもたやすくなっているはずです。


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ホ・オポノポノなども、自分自身の心を癒すことに繋がります。慈悲の瞑想も、自分の心を癒すことになります。
ホ・オポノポノの、中核概念は、世の中(自分が体験する世界)に起こる全ての出来事(良いこと悪いことを含めて)は、自分自身の潜在意識のなかの記憶が再生されている事象であり、それは全て体験している、わたし自身が100%対処できるものとして関与しているもの(責任)である。
日本語で責任というと、「お前の責任だ」というような、相手に責任を押し付けるような言い方に聞こえますが、ここでの「責任」は、いわゆる日本語的な「責任」ではなく、対処出来るものとして関与できる、関与しているという意味合いで解釈します。
ホ・オポノポノにおける潜在意識は、ハワイ語で「ウニヒピリ」と呼ばれ、深層意識(インナーチャイルドと呼ばれています)と同義語として扱われています。厳密に言えば潜在意識と深層意識は分けるべきでしょうが、ここではどちらかというと、より深い潜在意識(深層意識)の意味で用いています。
実践方法はシンプルであり、問題を解決するために自分自身の潜在意識に、次の四つの言葉を繰り返すものです。
四つの言葉は、別の同じような意味の言葉に変えても、どの順番でもかまいません。さらに四つの言葉すべてを言わなくても、一番心にしっくりくる言葉だけでもよいのです。

「ごめんなさい」「許して下さい」「ありがとう」「愛しています」

これを伝えることで、潜在意識下の記憶が消去され、心が癒されます。この四つの言葉やクリーニングは、自分自身に対してまず行います。まず自分をしっかりと、クリーニングします。
ホ・オポノポノの世界観で、世の中を観て生き始めると、記憶は完全にはなくならないけれど、クリーニング以前のように、無意識に記憶にコントロールされてしまうということは減ってきます。


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行動でポジティブ意識になる方法についても考えて見ましょう。

行動でポジティブ意識になる方法というのは、人を傷つけるようなことをせず、人を助ける行動をとることです。人を助ける行動は、意識をポジティブな方向へと持っていきます。この行為は、ポジティブ意識の人が行う行為です。ボランティア活動でもよいし、何らかの意味で人を助けるような活動を行うことです。これも日常生活とは離れた活動になることが多いですから、かなりの努力をしないと続けられません。

この行動は、仏教などでの戒律を守り、善業(よい行為)が生じるように努力することと、同じことになります。善業が生じるように努力することは、よい行為(善業)が良い結果をもたらすというだけでなく、意識をポジティブな意識にするためでもあります。
ポジティブ意識になる行動は、善業が生じるように、意志して努力することであり、悪業を断滅するように、意志して努力することです。

解脱した状態の意識では、善業も悪業も積むことはありません。そこには善も悪もありません。
しかしその途中の段階では、悪業は解脱の障害となり、善業は助けとなります。
ですから、まず他者を愛し、助ける行為を行うことは重要です。

2011年7月19日火曜日

ポジティブ意識になるための方法(2)

四無量心(慈・悲・喜・捨)についても説明しておいたほうがよいでしょう。

誰でも自分の幸せをまず考えますから、慈悲の瞑想も自分の幸せを祈るところからはじめています。どのような人がいても、人間はあくまでも自分を中心として生きるしかありません。
自分の幸せも健康も願わずに、他の人の幸せと健康だけ願える人はまれでしょう。このようなことができる人は、まず普通人ではいないでしょう。
自分を愛するがゆえの人を愛する行為であり、自分の健康を願うがためゆえの人の健康をも祈るというのが、普通の人の正直な心です。普通の人の意識では、まず自分のことから始めるしかないのです。
したがって、まず自分が幸せになるように祈ります。そして自分の幸せのためには、他の人の幸せも祈ることが必要であることを知っていくのです。ですから慈悲の瞑想では、最初に自分の幸せを祈り、自分の中にやさしい心を作ることからはじめています。


仏教では、キリスト教のような「愛」という言葉を用いません。本来のキリスト教での「愛」は、無私の愛でしょうが、「愛」という言葉にはそれ以外の意味も含んでいます。
キリスト教では一言で「愛」といいますが、夫婦の愛、男女の愛、親子の愛では当然ちがっています。男女の愛にも、エロティックな愛もあれば、そうでない愛もあります。男女の愛でも、ただ愛という一語では表現できない微妙な差があります。このように、同じ「愛」という言葉を使っても、意味は使う文脈でいろいろと異なっています。
同じ「愛」という言葉でも、その意味は曖昧です。「愛」には、不確実性、多様性、複雑性などの曖昧さがあるのです。
仏教では「愛」という言葉を使わず、慈・悲・喜・捨の四つの感情として、人間の持つ自然な感情を育てていくことを目指しているのです。

ちなみに漢訳仏教経典では、「愛」という言葉がでてくると、キリスト教のような無私の愛という意味ではなく、「渇愛、執愛、愛執」というような、執着や愛着の意味で用いられています。漢訳経典を読む場合には、意味を取り違えないよう注意が必要です。


四無量心(慈・悲・喜・捨)の説明をしましょう。どうしても漢訳された、慈・悲・喜・捨という感じの意味に捕らわれてしまいますが、もともとの意味はつぎのようなことを指しています。


1.慈
()慈は、慈しみや友情にちかい感情のことです。
他の人と仲良くしたいという感情です。人と仲良くしたい、多くの人と楽しく暮らしたいと思う感情、それが慈です。

2.悲
悲は、哀(憐)れみの感情です。
憐憫の感情であり、悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情です。だれかが困っていればすぐ助けに行ってあげる、そのときの助けに行くのは、誰にとっても気持がいいはずです。困っている人を助けてあげたいという感情は、人間であればいつも必要な感情です。

3.喜
喜は、ともに喜ぶ感情です。
人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情です。
しかし自分の回りのだれかが仕事が上手くいったり、人が大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりすると、すなおには喜べず、嫉妬という感情に苦しめられます。
この嫉妬という感情は持たないほうがいいものです。それだからこそ人が成功したならば、「ああ、よかった、よかった」とな喜ぶ感情を抱けるようにするのです。

4.捨
()捨は、捨てさるという意味よりも、平等で冷静な感情を表します。
人間はどんな物ごとに対してもいろいろな感情を抱きます。そのいろいろな感情に流されないように戒めて、生命のすべてを見極める心のことです。
他の人が怒っていたり、悪いことをしても、そういう人たちに翻弄されてはいけません。様々な人がいますが、それらを放っておくことも大切なのです。悪をこらしめるというのではなく、ただ冷静な心になって、平等に見守っている、それが捨です。


四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想は、これら四つの感情をべつべつに育てることが目的です。
これらの四無量心(慈・悲・喜・捨)の感情は、私たちが生まれついて持っていたものではありません。瞑想によって、この四つの感情を習得し育てていくために、四無量心の冥想法があります。
これを簡略化したものが慈悲の瞑想です。

2011年7月17日日曜日

ポジティブ意識になるための方法(1)

どうやったらポジティブ意識になれるのでしょうか。ポジティブ意識になる方法はあるのでしょうか。よく考えると、ポジティブ意識になる方法はあるのでしょうか。ポジティブ意識になるための、具体的な方法があまりないために、その意識状態になるのは難しいのです。

そこで、ポジティブ意識になる方法の前に、まずポジティブ思考になるにはどうしたらよいかについて考えて見ることにしましょう。


自分がネガティブ思考であったことに気づき、ポジティブ思考になろうと考えた場合には、どうしたらよいでしょうか。ポジティブ思考になるためには、顕在意識(普通の表面意識)で自己を奮い立たせて、前向きに考えよう、積極的に取り組もう、と懸命に努力するということになります。何か問題となるような、普通の意味での悪い出来事があったとしても、この事件からどこかに学ぶべきことはないかと考えて、良い面を探し出す努力をするというようなことです。
こういう努力を何度も繰り返し、最終的に普段の思考の習慣化にまで持っていくということになるでしょう。ポジティブ思考を潜在意識に植えつけるためには、イメージトレーニングのようなことも考えられるでしょう。
ポジティブ思考をしようと思っても、怒りや恨みの念を抱いていると、なかなか顕在意識(表面意識)で前向きに考えようとしても、難しい場合があります。理不尽な酷い仕打ちを受けたなどの場合に、その怒りや恨みの気持ちを克服するのは、かなり難しい場合があります。ポジティブな思考に向かわせるためには、顕在意識(表面意識)での意識的な努力を、歯を食いしばってもひたすら続ける以外にありません。
基本的にポジティブ思考になるには、顕在意識(表面意識)での意識的な努力に尽きるように思われます。


意識的な努力が主なポジティブ思考とは違って、潜在意識に深く根付いたポジティブ意識には、どうやったらなれるのでしょうか。意識的な努力が行いにくいため、どうしたらよいのかが難しいのです。ポジティブ意識になるための、具体的な自分でできる方法がないのです。

例えば、ポジティブな意識になろう、ポジティブな意識を高めようと思った場合を考えます。しかしながら、ポジティブ意識になるためには、顕在意識(表面意識)でポジティブになろうと思っただけでよいのでしょうか。他者との一体感を感じるような利他的なポジティブ意識には、表面意識で努力できるような具体性があまりないのです。これでは、どうしてよいのか分りません。
とりあえず、まずポジティブ思考をするように一生懸命に努力することはできます。ですが、これは本質的なポジティブ意識とは違います。ポジティブ思考ができても、ポジティブ意識になるとは限りません。利己的なネガティブ意識のまま、ポジティブ思考(前向きに)をしているのかも知れません。
もっと直接的にポジティブ意識にもっていくような方法が必要になります。


そこでポジティブ意識にもっていく方法には、どんなものが考えられるでしょうか。顕在意識(表面意識)での意識的な努力は、あまり効果があるようには思えません。
するとポジティブ意識に持っていく方法としては、瞑想と実践的な行動しかないのではないでしょうか。

・瞑想
・行動


瞑想について考えて見ましょう。瞑想の仕方には、実に多くの種類があります。どういう瞑想がポジティブ意識にむすびつくのか考えて見ましょう。

瞑想でのサマーディの体験(すべてとの合一体験)が、ポジティブな意識と関係が深いことです。瞑想をはじめてすぐに、すべてとの合一状態に至るサマーディ体験が得られれば、自分と他者とが一体であるという、ポジティブな意識にすぐなれるでしょう。
しかし、普通は瞑想を始めても、そう簡単にサマーディ状態などには入れません。ヨーガの行者が
長い修行の末に、やっと到達できるかもしれないような状態です。ヨーガ行者でも到達できないかもしれません。
サマーディに達しなければポジティブな意識になれないのであれば、一般人には一生かかっても、ポジティブな意識になろうという努力だけで終わってしまうかもしれません。これでは努力のしがいがないと言わざるを得ません。
解脱を求めるならば、サマーディに到る瞑想に挑戦すべきでしょう。しかしポジティブな意識を持つためにする方法としては、サマーディに到る瞑想はハードルが高すぎます。
誰でもある程度努力すれば、ポジティブな意識を獲得できるような方法でなければ、一般人向きの方法ではありません。もっと瞑想の初心者でも、効果のある方法はないでしょうか。


そこで調べてみると、仏教に「慈悲の瞑想」と呼ばれる方法があることが分りました。慈悲の心は仏教の修行に役立つのです。

普通、人は、自分は個別の「存在」だと思っています。全部と繋がっているというような、統合された全体的な意識は感じていません。個別の「私」という存在を感じています。
「私は」と思うことにより、この宇宙全体にみなぎる生命のエネルギーと自分とは、別なものであり、自分は個別的な存在だと思います。そこから、自分と他者とを区別し、区別することによって、人間の苦悩として、いろいろな問題が生じてきます。
しかし、この「私」という個体があるという実感は、実に強烈な感覚なので、なかなか消えるものではありません。五感では、誰かが体に触ったら「触られた」と感じるし、暑い空気が体に触れたら「暑い」と感じます。音や光も、個体の肉体が五感を通して感じます。これらは自分は、他者とは違う個別の人間(個体)であるという個別意識を助長します。
ではどうすれば、自分と他者とを区別せず、慈悲の心を持てるでしょうか。そのための1つの方法として、慈悲の瞑想があります。
このような慈悲の瞑想を行うと、他者への慈しみの念が湧いてくるようになるでしょう。この他者への慈しみは、ポジティブな意識を持つための基礎になるでしょう。


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慈悲の瞑想は、南伝仏教で、四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想からでてきた瞑想です。
日本テーラワーダ仏教協会や上座仏教修道会などで使われている方法です。

慈悲の瞑想のやり方は、次の4段階で、慈悲の言葉を唱えて、心にしみこんでいくように念じていきます。
言葉は、静かに心にしみこんでいくように、丁寧に丹念に念じます。一人で実践するときは、声を出さなくてかまいません。
姿勢は、背筋と頭をまっすぐにして、目を閉じて下さい。

1.自分自身への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
2.自分の周りの親しい人(両親、友人、子供等)への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
3.全ての生命(生きとし生けるもの)への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
4.自分が嫌いな人、嫌っていると思われる人への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
自分が嫌いな人のことを、心に思い浮かべて、慈悲の瞑想を実践します。
さらに、自分のことを嫌っていると思われる人のことを、心に思い浮かべて、慈悲の瞑想を実践します。

1から3までは、誰でも比較的抵抗がなく、慈悲の瞑想が行えると思います。
しかし、4については、怒りや恨み、憎しみを抱くような、酷いことをされた相手に対しても、慈悲の瞑想を行わなければなりません。このような憎むべき相手に対して幸せを祈るという行為は、心の中に強い抵抗が生じることがあります。その心の中の抵抗を乗り越えて、慈悲の瞑想を続けていくと、心の中にあった怒り、恨み、憎しみが薄らいでくることが分ります。それだけの酷い状況に合っても、心の抵抗を乗り越えたことは、深い慈悲の心を持てるようになり、心の強さにもつながります。
長く続けていると、最終的には、心の中にあった怒り、恨み、憎しみの念もなくなっていくでしょう。

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唱える言葉
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1.自分自身への慈悲の瞑想

・私は幸せでありますように
・私の悩み苦しみがなくなりますように
・私の願いごとが叶えられますように
・私に悟りの光が現れますように
・私は幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。


2.自分の周りの親しい人への慈悲の瞑想

・私の親しい人が幸せでありますように
・私の親しい人の悩み苦しみがなくなりますように
・私の親しい人の願いごとが叶えられますように
・私の親しい人にも悟りの光が現れますように
・私の親しい人が幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。


3.生きとし生けるものへの慈悲の瞑想

・生きとし生けるものが幸せでありますように
・生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
・生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
・生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
・生きとし生けるものが幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。


4.嫌いな人と嫌っている人への慈悲の瞑想

・私の嫌いな人も幸せでありますように
・私の嫌いな人の悩み苦しみがなくなりますように
・私の嫌いな人の願い事が叶えられますように
・私の嫌いな人にも悟りの光が現れますように
・私を嫌っている人も幸せでありますように
・私を嫌っている人の悩み苦しみがなくなりますように
・私を嫌っている人の願い事が叶えられますように
・私を嫌っている人にも悟りの光が現れますように
ここまでを3回繰り返す。


5.最後の生きとし生けるものへの慈悲の瞑想

・生きとし生けるものが幸せでありますように
最後にこれを3回繰り返す。

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仏教に限りませんが、伝統的な宗教の修行の中には、このようなポジティブな意識へと向けるような修行内容も含まれています。怒りや恨みのためポジティブ思考になかなかなれなかった人でも、このような方法で自分の中のマイナスの感情を浄化していくことで、次第にポジティブな意識へと向けていくことができます。ポジティブな意識になれば、ポジティブ思考することも、よりたやすくなっていくように思われます。
ポジティブな意識を持ち、ポジティブな意識を高めていくことには、それなりの努力を要するものと思われます。

2011年7月15日金曜日

審神者の仕方

チャネリングの内容が信じるに値するかどうかについて考えてみたいと思います。

もし、ある人が口はうまくても内容が嘘であったら、誰もその人のことは信じなくなります。その人の語る言葉が、本当のこと(事実と一致すること)であるからこそ、周りの人々はその人物を信用することができるのです。
チャネリングについても、それと全く同じことが言えます。チャネリングを通じて語られる内容が、本当であるか(事実と一致しているか)どうかをみるということです。チャネリングの真偽は、チャネラーを通じて語られる内容が、事実であるかどうかによって、最終的に決められるのです。
これを神道では、審神者(さにわ)と呼びます。出てきた霊の真偽を判定する行為のことです。

ところが、こうしたあまりにも当たり前のことが、チャネリングのような外国から来たものでは、おろそかにされることが多くあります。チャネリングでは、クライアント側はどうしたらよいのか、とたんに分からなくなってしまうのです。
この理由の一つは、どうやって真偽を見分けるのかというようなことを丁寧に指導してくれる人がいないからでもあります。チャネラーの述べる神様からのメッセージに対して、真偽を確かめるなどという大それたことは、とても自分にはできるはずがないと思い込んでしまうのです。
もうひとつの理由は、あるいは最初からそのチャネラーのことを信じてしまっており、本物かどうかの判定が必要だということまで考えが及ばないからでもあります。

世に出ているチャネラーからのメッセージを聞く場合には、その内容の真偽を確認するのは当然のことです。別の世界からのメッセージで成り立っているチャネリングでは、メッセージとチャネラーの真偽をチェックすることは基本中の基本ということになります。


1.メッセージの内容に意図的に盛り込む嘘

まず最初のチャネリングの嘘を見破る方法は、メッセージの中に意図的に盛り込む少し(1割以下)の嘘の部分を、いかに的確に見抜くかという点にあります。

巧妙な物の怪(魑魅魍魎、悪霊)は、メッセージの大部分(9割以上)の内容は真実を述べていることが多いのです。物の怪も、チャネリングでクライアントにとっての真実や、霊的な真理を述べて信用させます。
その真実の部分を含むことで信用させ、メッセージを悪用していきます。それはメッセージの内容に、意図的におかしい部分を少しだけまぜることで行います。メッセージに真実が含まれていたために、そのおかしい部分まで、本当のことであると信じてしまうようにさせるのです。
これが物の怪(魑魅魍魎、悪霊)の取る、代表的な騙しのテクニック(手口)です。

この少しのメッセージの中のおかしい部分が、大変に大事な部分です。意図的に盛り込むメッセージの中に、いままでの何かを根本から引っ繰り返すような内容が込められていいます。
そのたった1割以下にすぎないおかしい部分でも、メッセージ全体の最終的な方向性が決められてしまうのです。メッセージの重大性という点からは、そのおかしい部分は、1割よりも、もっとっずっと大きな割合を占めているといえます。

そのためには、告げられたメッセージを、全体的な観点から検証しなければならなりません。
クライアントにとっての個人的な真実は、真偽が分りやすいでしょう。分りやすい部分には、嘘は混ぜないことが多いと思われます、ですから、メッセージの中の霊的真理に注目した方が良いかもしれません。
霊的な真理と思われるものと、異なる内容がメッセージにあった場合、それがチャネラーの単なる未熟さから出たものなのか、あるいは意図的に仕組んだものなのかを判断していかなければなりません。意図的に仕組んだものであると考えられた場合には、そのメッセージ全体を信用するべきではありません。そのチャネラーもメッセージも偽物として捨て去るべきものです。
こうした鋭い洞察力が審神者(さにわ)には要求されるため、なかなか真偽の判定は、難しいのです。


2.チャネラーの現実の行動や生活態度

次のチャネリングの嘘を見抜くための方法は、チャネラーの現実の行動や生活態度を観察し、チャネリングの内容を検証することがあります。

チャネリングのメッセージに表れる嘘は、大変に巧妙なものです。見抜くためには、それを語るチャネラーの実際の行動や生活態度を注意深く観察することが求められます。
誰でも、口先では言葉だけでは立派なことが言えます。しかし、それが本心でないときには、現実の行動や生活の中で、必ずおかしな点が出るものなのです。

その人間の本性は、特に金銭に対する姿勢や名誉心などに端的に現れます。

もし、相手が初心者のチャネラーならば、ひたすら謙虚に自分の利益を求めることなく、人々のために精いっぱいの奉仕をするべきです。これによってのみ、真偽が判断されることになります。
一度、会っただけでは、そのチャネラーの現実の行動や生活態度を検証することが難しい場合もあります。その場合は、保留にしておくしかないでしょう。

2011年7月13日水曜日

「人間は神である」という意味

あるチャネラーが、「人間は神である」と言いました。
私もその言葉の内容自体は否定しませんし、言われた時点では、なるほどとも思いました。私も人間の中には、神性(仏性)とでもいうべきものが存在していると思っています。


しかしながら、私の思う「人間は神である」という意味とは、そのチャネラーのいう「人間は神である」という意味とは、かなりニュアンスの異なる言葉でした。
私のいう「人間は神である」という意味は、人間の中に本来ある神性(仏性)が、その人の魂の奥から表に出るように、自己を磨くことにより、魂を輝かせるというような意味です。


ところで、このチャネラーの言っている「人間は神である」という意味は、どうも違う意味に捉えられました。このチャネラーにとっては、自分の好き勝手に現実を操作できることを指して、「人間は神である」と言っていることが、話の内容から分ったのです。
つまり、「人間は万能の神のように、すきなように現実を変え、思い通りに現実世界を操作できる」ということなのです。現実世界を好きなように操作できるということに、このチャネラーの言うことのポイントはあるのですね。

このチャネラーの「人間は神である」という言葉からは、あまりにも明確に、このチャネラーがネガティブ意識の人間であることが明らかとなってしまいました。
ネガティブ意識の人間は、利用価値があれば、他者を自分の意志に沿うように操作(コントロール)し、支配しようとするのです。ネガティブ意識の人間は、どこまでいっても自分と他者との間には、はっきりとした区別があります。他者は利用すべき対象ではあっても、あくまで大切に取り扱うべき自分自身ではないのです。
ネガティブ意識とは、ネガティブ思考ということではありません。ネガティブ意識でも、ポジティブ思考で社会的に活躍している人は多くいます。ネガティブ意識とは、他者と自分とを厳然と区別し、自己のみへ奉仕する者のことです。ネガティブ意識の人間は、基本的に自己への奉仕者ですから。


もしこのチャネラーのような、わがままで身勝手な人間の思うままの世界が、もし出現したとするなら、それは天国ではなく、地獄となるのではないでしょうか。
その世界を作った、わがままで身勝手な人間にとってだけは、天国といえても、他の人にとってはその世界は地獄そのものでしょう。
自分だけが好き勝手なことができる世界、それは独裁者の世界にすぎません。このチャネラーの考える神とは、そんな程度のレベルの低い存在なのかということです。

こんな世界は、私の意味するところの神の世界ではありません。
神は人間を思い通りに操作もしなければ、好き勝手なことをする存在でもありません。
それは厳しい神律に反します。神律に反したことを神は、行いませんし、行えません。

このチャネラーにとっての神性は、自分の中にある魂を磨きに磨き、高めに高めて、できるだけ輝かせるという意味ではないのです。


神からも「何とすばらしい人であることか」と感嘆されるような行動を取れる人こそが、「人間は神である」といわれるにふさわしい人でしょう。
これこそ、神からも祀られる人である、と言えます。

2011年7月11日月曜日

ヒーラーやチャネラーの人格

あなたがヒーリングやチャネリングを受けようと思ったならば、ヒーラーやチャネラーのところへ出向きますね。最初にヒーラーやチャネラーに会った時点で、あなたはどうしますか。
まず最初にするべきことは、最初に会ったときのヒーラーやチャネラーの第一印象を詳しく観察し、その印象を大切にすることです。そのときの最初に受けた印象が大変大事です。

そのヒーラーやチャネラーの第一印象からは、心の暖かさや、他者への思いやりを受けたでしょうか。もしそのヒーラーやチャネラーの人柄が、我がままで、身勝手、人の言うことは聞かない、というような印象を受けるような人ならば、気をつけなければいけません。
話し始める前ですと、まだ言葉によるヒーラーからの影響を受けていません。言葉によるヒーラーからの影響を受けてしまうと、話している内容に気を取られてしまい、最初の印象が薄れてきます。


まず最初にするべきことは、そのヒーラーやチャネラーは、話すときにどんな態度を取っているのか、物腰を気をつけてみるべきです。
・その人物からは、クライアントのことを大切に思っていることが感じられましたか。
・その人物からは、わがままな印象を受けませんでしたか。
・その人物からは、身勝手な印象は受けませんでしたか。
・その人物からは、自分のことしか考えていない、という印象は受けませんでしたか。
・あなたは神から選ばれた人です、というようなことを言われませんでしたか。
・他の人と比較して、あなたの方がすでにレベルが高い、というようなことを言われませんでしたか。
・あなたのことを持ち上げて、自尊心をくすぐるようなことを言われませんでしたか。

もしヒーラーやチャネラーから、このような印象を受けたならば、その人の基礎的な修養ができていない可能性がかなり高くなります。そのヒーラーやチャネラーは、多分ニューエイジにあるような安易な方法しか知りません。このような人には、ニューエイジにあるような安易な方法ではなく、もっと伝統的で基礎的な修行や、儒教にあるような人間的な修養が必要なのです。このような基本的な修養ができていないと、人間としての基礎的な心構えができていないことになります。
もし、こんな人の言うことを聞いていたなら、人生を狂わされ、振り回されてしまうことになりるかも知れません。


性格的、人格的に問題があると思われるようなチャネラーに、本当に高い何かの神様(神霊)が降りてきて、メッセージを降ろすと思われますか。
このような傲慢な性格を持つチャネラーに縁を結ぶ存在は、高い神様(神霊)などであろうはずはなく、同じように傲慢な性格を持つ、物の怪(魑魅魍魎)の類の可能性が高いのです。そうすると、メッセージの発信元は、物の怪ということになり、メッセージの内容には、全く信頼が置けないことになります。

ここがチャネリングの真偽判定で難しいところでもあり、惑わされるところなのですが、物の怪からのメッセージであっても、内容的には当たっている部分もあるのです。そのためクライアントは、本当かもしれないと信じ込んでしまうことになります。

クライアントは、そのチャネラー本人の人格・性格から、本人が言うような本当に高い神様なのか、物の怪(魑魅魍魎)の類なのかを、判断するしかないのです。もし疑わしい場合には、そのメッセージの内容がどうあれ、何を言われても、すべてを無視するしかありません。
たとえ、そのチャネラーが何かの儀式で神様の神託らしきものを降ろしていたことがあっても、人柄が信頼が置けないと感じた場合、繋がっている相手が、まずよい存在であることがありません。ほとど繋がっているすべての相手は、物の怪(魑魅魍魎)ということになります。このような人のチャネリングで話す内容も、全く信用できるものではありません。

チャネリングしている相手は、本人が言うような高い次元の神様などではなく、神を僭称している(名乗っている)魑魅魍魎(物の怪)の可能性が極めて高くなります。
そのチャネラーの言った事(メッセージ)を、まともに信じると大変なことになってしまうかもしれません。それで、そのチャネリングで言われた内容については、当たっている点も含めて、すべての言われた内容を無視することしかなくなります。
クライアントは何かの理由をつけて、早々にそこを立ち去るべきです。そのほうが、後々まで受けるような危険が少なくなります。


ネガティブ意識の者でも、ヒーラーやチャネラーになることができます。ヒーラーとしてもやっていけ、何かのチャネリングはできるのです。
ネガティブな意識では、基本的に他者に対する愛はありませんから、ヒーリングもチャネリングも愛のないものになります。見せ掛けの愛のような行動はするかもしれませんが、自分のためでしかないことが多いはずです。
ネガティブな意識のヒーラーのヒーリングを受けても、結局は心が癒されません。ネガティブな意識のチャネラーのメッセージには、相手に対する本質的な愛がありません。

ネガティブな意識(ネガティブ思考とは違います)でも、今の世の中を生きていくことには、あまり関係がありません。ここでいうネガティブな意識とは、ポジティブ思考とかネガティブ思考という意味でのネガティブとは違います。ネガティブな意識の者は、利己的な目的のために他者を利用しよう支配(操作)しようする者のことです。

ネガティブ意識の人は、基本的に自分を一番愛する自己奉仕者であり、自分だけが大切であると意識しています。そのため、自分では意識できないでしょうが、他人から見ると、かなり利己的な行動を取ります。
ネガティブ意識の人間は、必ずしも落ち込んで世の中を生きるのがつらいというわけではなく、利己的な目的のために他者を利用しよう、支配しようしている者ということです。
ネガティブ意識の者でも、独裁者のように権力を持ち、活躍できるのです。これには、何か世の中の矛盾を感じますが。

ヒーリングした後に、ヒーリングの基礎講習会を受ければビジネスにも役立つし、自分でヒーリングもできるということで勧める人もいます。セッションでヒーリングの本までも、買わせるようなヒーラーもいます。もしかしたら、その本からの悪い影響を避けるためにも、捨てた方がよいかもしれないぐらい可能性すらあります。


もしそのヒーリングの創始者の写真も見る機会があるならば、見てみるべきです。その創始者は高貴な印象を与えるような方でしょうか。
すごいサイキック力はあっても、気味の悪い印象や、どぎつい印象を受けるような人物とは、関わるべきではありません。
神界からの人なのか魔界からの人なのか、その見極めは難しいでしょう。ここでも最初の第一印象を大切にすることです。すっきりとした神人や聖者は、それなりの印象を写真からも与えます。すっきりとした印象を受けなければ、やめた方が賢明です。

こういう人たちも信頼が置けず、早々に立ち去るべき危険な人たちです。早々に立ち去らないと、セッション後は、本当に数日間は何か気分が悪かったということになりかねません。不愉快な不安感や、わだかまりが心の中に残るかも知れません。
ヒーリングには物の怪(魑魅魍魎)を使って、効果があるかのように見せかけているものもあるのです。宇宙の高い次元に繋がってヒーリングするといっても、これは単なるヒーラーの思い込みだけの妄想であることが多いのが実情でしょう。
物の怪(魑魅魍魎)の行うヒーリングには、非常に危険な、よくないエネルギーを受けてしまうヒーリングもあります。そのヒーラーが信頼できるような人物ではない場合、変なエネルギーを受けてしまう可能性があります。


ニューエイジ関連は、素人にとっては本当に危ないものが多くあります。このニューエイジ(精神世界)には、本当に危険なものがたくさんあると感じています。素人には判断の付きかねるような、真贋の難しいものも多くあります。危険がいっぱいの世界です。

ヒーラーやチャネラーが男性や女性かということよりも、まず人として信頼が置けるか人間なのかという、その人の人格を先ず見極めることを優先しなければいけません。
どんなヒーラーやチャネラーでも、人間として信頼が置けない人は、あなたが相手にするべき人ではありません。

2011年7月9日土曜日

ポジティブ意識とネガティブ意識(5)

スピリチュアルな本の中で述べられている、宇宙的なポジティブ側(ポジティブな存在)とネガティブ側(ネガティブな存在)の争いというのも、簡単に決着が付くようなことではありません。

ポジティブ側とは、いつでもできると考える、積極的な心構え(ポジティブ思考)を持った人のことではありません。ネガティブ側とは、いつでもできないと考える、消極的な心構え(ネガティブ思考)を持ち、落ち込んでいる人のことではありません。ポジティブ思考の積極的な人と、ネガティブ思考の消極的な人が争えば、積極的なポジティブ思考の人が圧倒的に勝ってしまうことでしょう。そもそも、これでは勝負にすらならないのではないでしょうか。

ポジティブな存在とは、普通の意味のポジティブ思考をしている存在ではなく、ポジティブな意識を持った存在のことを指しています。ネガティブな存在とは、ネガティブな意識を持った存在です。
他者への愛を感じる利他的なポジティブ意識と、自己への愛を強く持つ利己的なネガティブ意識とでは、持っている意識から生じる基本的な考え方が違うので、話し合っても合意することはありません。


ポジティブな存在は、他者と一体と感じている意識状態であり、積極的に世界を変えようと考えています。彼らの考える理想世界は、あくまで各人の自由意志を尊重し、強権的な支配を嫌います。強権的な支配ではなく、各人、一人ひとりの考えや行動を尊重するようにした世界を理想とします。
ネガティブな存在は、他者とは分離されていると感じている意識状態であり、彼らも積極的に世界を変えようと考えています。彼らの考える理想世界は、各人の自由意志は制限し、ある程度は強権的に支配することによって、強制的にでも世界に平和をもたらそうというものです。全体を優先するため、ここには一人ひとりを尊重するという考えはありません。

利他的なポジティブ意識の側は、自分たちの考え方が正しいことを、すべてと一体となった自分の体験から感じています。
利己的なネガティブ意識の側は、分離の体験しかないため、強権的な支配にこだわり、自分の行動は平和をもたらすための正義の行動だと考えています。

どちらも自分の経験から、自分こそが正しい、正義であると考えて行動しています。
どちらも自分が正しいと考えているうえに、本質的な意識状態の違う相手を、何の体験もないまま、話や交渉によって説得することはできません。


では、ポジティブ意識からネガティブ意識には、簡単になれるのでしょうか。ポジティブ意識を持っていたとしても、何かの出来事から利己的な意識状態が強くなれば、ネガティブな意識状態となります。何かの出来事がきっかけとなって、ネガティブな意識状態となってしまう場合があります。
たとえば、恐怖に捕らわれた、不安におののいた、嫌なことを無理やり押し付けられた、無理やりさやらさられた、人に騙された、人からいいように利用された(操作された)、怒りを感じるようなことをされた、など自分にとって不愉快な出来事がそのきかっけとなりえます。自分でも気づかないうちに、いつの間にかネガティブな利己的な意識状態となってしまうことは、普通の人でもよくあることでしょう。
この状態がずっと続くようだと、ダークサイドに落ちた状態となります。しかしダークサイドに落ちたからといって、目に見えるようなものではありませんし、自分でも気づかないかもことが多いのではないでしょうか。人は自分の意識には、気づきにくい者です。
本質的な行動の原理が、他者のことを意識することがなくなり、自己のためだけにあるということになるだけです。

では逆に、ネガティブ意識からポジティブ意識になれるのでしょうか。なれますが、こちらの方がポジティブ意識からネガティブ意識になるよりも、その移行は難しいでしょう。
かなり意識して、自分が今まで持ち合わせていないような他者を思いやるという、ポジティブな意識を持とうとしなければなれません。
何の努力もしないで、ネガティブ意識からポジティブ意識になることは、普通はないでしょう。


ネガティブ意識でも、利己的なポジティブ思考を持って活躍する人が多いというような現代社会では、ネガティブ意識の人たちが減少していかないのは、当然のことではないでしょうか。むしろネガティブな意識状態の人たちは、自分の野望の実現ためにポジティブな思考を持ち、ますます強くなっていっているのではないでしょうか。
これが現代社会の状況なら、世界がある時点でアセンションして、ばら色の社会が生まれることなど、とても信じられることではないでしょう。


さて自分の意識が「ポジティブ意識かネガティブ意識か」「ポジティブ側かネガティブ側か」を選ぶのは、その人の自由意志です。単純に何も考えないならば、普通はポジティブ側と呼ばれる意識でいたいと思います。利己的な考えが非常に強ければ、ネガティブ側を選ぶかもしれません。
自分の自由意志といっても、それほど簡単には自分が選んでいる意識が、ポジティブ側を選んでいるのか、ネガティブ側を選んでいるのか、どちらを選択しているかを認識できません。

ポジティブ側にいようと表面意識で思っていても、何かのきっかけで利己的な意識が強くなれば、自分ではポジティブ側にいたはずなのに、いつのまにかネガティブ側に移行してしまっています。知らないうちに、ポジティブ側ではなくなり、ネガティブ意識の人間となってしまうのです。ポジティブ側とネガティブ側の境目辺りの意識状態は、どちらにもなりうる微妙な意識であると思われます。
ネガティブ意識になるきっかけとしては、悲惨な出来事に対する恐怖や怯え、ひどい仕打ちに対する恨み、憎しみや怒りなどを抱くと、どうしても利己的な心理状態になりやすく、その影響が潜在意識に深く入ってきます。こういうことから、恐怖、恨み、憎しみ、怒りなどはネガティブ意識(利己的な心理状態)を呼び起こしてしまいます。
恨んで当然の状況でも、憎んで当然の状況でも、怒りを感じて当然の状況でも、恐れを感じて当然の状況でも、それでもネガティブ意識にならずに、ポジティブ意識のままでいること、これが求められています。ですが、これは実際にはかなり難しいことです。かなり精神的に強い人か、心の修行を積んだ人でないと影響を受けないようにすることは難しいものがあります。

利己的な意識が弱くなり、利他的な意識(自分と同じように他者も扱うという意識)が強くなれば、次第に意識は、ポジティブ側となってきます。でもこれは、どちらかというと努力しなければなれません。努力することにより、ポジティブ側にいようとするならば、他者との共感や、他者への利他的な思いやりを強くしていくことが求められます。
ポジティブ意識とは、ポジティブ思考(ポジティブ・シンキング)のことではないので、いくら普通の意味でのポジティブに考えよう、ポジティブに行動しようとしても、ポジティブ意識にはなれるものではありません。
このようなことから、意識をポジティブ側に置いておくためには、修行や瞑想などの昔からある伝統的な努力も必要かも知れません。


利他的な心を持ったポジティブ意識の存在だけの世界ならば、すでにこの世は天国となっているでしょう。
しかし現実は、そうではありません。ポジティブ意識の人間とネガティブ意識の人間とが、一緒に交じり合って、生存しているのがこの地球世界です。
どちら側にも、自分の行っていることが正しいと思えるような論理はありますし、利己的なネガティブ意識でも、社会で成功者として活躍できるのです。ネガティブ意識の成功は、あくまで自分が中心となるものですが。


このように考えてみると、ポジティブ側とネガティブ側との違いとは何か、その意識の違いはどこにあるのかが分ってきます。
人間の持つポジティブ意識とネガティブ意識の違いについて、明確に区別ができるようになってくるのです。

すべてと統合されたという人間の意識が、ポジティブ意識の元になっています。
すべてから分離されたという人間の意識が、ネガティブ意識の元となっています。
ポジティブ意識とネガティブ意識とは、統合された人間の意識と分離された人間の意識を元にして、人間の意識を2つに類型分けしたものといえます。

ポジティブ意識は統合されたという人間意識であり、すべての生命意識と言い換えることができます。
ポジティブ意識の者は、個人の自由意志を尊重しますので、他者を支配しようとはしません。自分だけが良ければというような意味ではない、他者を自分と同じように尊重しながらの個人主義的な社会になります。

ネガティブ意識は分離されたという人間意識であり、他者への支配意識と言い換えることができます。
ネガティブ意識の者は、すべてから分離されているため、自分とは違う他者を支配しようとします。すべてから分離されているため、自分が主役であり、創造主になれるような、自分の思い通りの世界を作っていこうとします。ネガティブ意識の作るその世界では、必然的に自由は制限され、平和とはいっても、力によって強制される平和であり、強権的な支配社会となります。誰かの意見に強権的に従わせるような全体主義的な社会となるでしょう。

2011年7月7日木曜日

ポジティブ意識とネガティブ意識(4)

大いなるものから分離した利己的なネガティブ意識(ネガティブな存在)でも、取り組んでいる物事へのポジティブ思考を持つことはできるのです。本質がネガティブ意識の人でも、ポジティブ思考(積極的な思考)によって成功者となれるということです。ネガティブな意識の者(ネガティブな存在)で、ネガティブ思考(消極的な思考)ではなくポジティブ思考(積極的な思考)を持っており、社会で活躍するような成功者、権力者となっている者も多くいるのです。

ポジティブ意識の者、ネガティブ意識の者といっても、そのレベルはいろいろでしょう。ネガティブ意識の利己的な意識の強さもさまざまです。社会の中では、いろいろなレベルのポジティブ意識の者やネガティブ意識の者が、ちょっと見た目にはほとんど同じように活躍しています。
ちょっと会って話をしただけでは、その人がポジティブ意識なのか、ネガティブ意識なのか判断できないことが多いと思われます。その人が、利己的な意識が強いネガティブ意識なのか、利他的な意識も持っているポジティブ意識なのか、人間の内面まで見通すことができなければ、とてもすぐに分るものではありません。

ネガティブな意識の者が、ポジティブ思考(積極的な思考)により成功者となると、他者のことを顧みない利己的な行動も取ります。ここが利他的なポジティブ意識の者と、利己的なネガティブ意識の者との大きな違いです。
ネガティブ意識の者と付き合うと、何かのことで裏をかかれるようなことがあり危険です。できれば、ネガティブ意識の者とは、付き合わないに越したことはありません。


ネガティブ意識で人を操作するといっても、人に対する単なるおせっかい焼きくらいなら、本質的なネガティブ意識と呼ぶほどではありませんし、他に与える影響もたいしたことはないでしょう。おせっかい焼きのような人もいますが、そのレベルではたいして大きな問題とはなりません。ここでいうネガティブ意識の人は、そんなおせっかい焼きのような人のことではなく、もし付き合ったりすると、もっとずっと大きな迷惑をこうむる危険性のある人物です。
例えば、自己愛性人格障害(サイコパス)者なども、完全なネガティブ意識の人といえますが、ポジティブ思考は持て、社会的に活躍している人もかなりいます。よほどよく観察してみない限り、普通人との区別は付かず、気がつかないことが普通です。


ネガティブな意識の者が、ポジティブ思考(積極的な思考)できるような人物であり、本格的に自分の思いのままに他者を支配し操作しようとすると、周りの人たちに与える影響は、格段に大きなものになります。
たとえば、話術の得意な(口が先うまく、ディベート術にたけている)ネガティブ意識の者なら、自分の利益のためなら、平気で人を騙すような行動も取るでしょう。
このような人は、本質はネガティブな(つまりは利己的な)意識でありながら、ポジティブ思考することができます。利己的なネガティブな意識の中で、ポジティブ思考を持っています。

このような人物は、多かれ少なかれ、現実の社会の中でも権力者としても見かけるのではないでしょうか。自分の心の中に、良心などないような行動をとる権力者もいるのではないでしょうか。最近はこのような人が解説者として出てくることもあります。
彼らは人を自分の主張する、一見もっともらしい意見に人を誘導するために(つまり支配しよう、操作しようと)話している、ネガティブな意識の人たちです。とはいえ、彼らも自分のためのポジティブ思考は持っており、自分や家族への愛もあります。
このように見てくるならば、ネガティブ意識の人でも、社会的に活躍している人は、実に多いのではないかということになります。

ここでいう権力者とは、政治的な権力を持っている人のことだけでなく、たとえば会社の上司や職場の上長など、いろいろなレベルでの人に影響を与える権力を持っている人のことを指しています。
権力のある者にとって、自分の意のままに他人を操作するというのは、快感も感じるでしょう。人を好きなように操れるわけですから、自分が万能の神にでもなったように感じられることでしょう。
例えば会社などで取締役になると、自分は立派な者で成功者だ、人より優れたひとかどの人物だというような自負心も強く持てます。このとき気をつけないと、社員の持てる能力を生かして使うというレベルを越えて、相手を意のままに人格を無視してまで、支配し操作する(コントロールする)、優越した権利があると思い込みやすいものです。


このような意味での、ポジティブ思考(積極的な思考)を持っている、ネガティブな意識の人物は、社会の中で、地位の高い者としても見かけます。社会的な成功者のなかには、このようなネガティブ意識(ネガティブ側)の人もいることになります。
ネガティブ意識だからこそ、利己的な意味での、社会的な成功者になれた人もいることでしょう。ネガティブ意識といっても、利己的な意識が強い成功者である場合も多いということになるのです。

さらに言えば、ネガティブ意識を持つ者でも、自分の意のままに他者を操ることを快感と感じるだけでなく、ときには自分は社会のため(組織のため、会社のため、国家のため等)に良いことをしていると思っているのです。
ネガティブ意識を持つ者は、自分がネガティブ意識を持っているなどと考えることも、思うこともありません。自分では常識に照らしても、当たり前の考え方をしており、心の中はポジティブ思考でのポジティブな思いが満ち溢れていると感じているかもしれません。
しかしながら、ポジティブ意識を持つ者と比較すると、ネガティブ意識を持つ者は、自己中心的な利己的な意識なのです。

ネガティブ意識の中では、自分の思いや考えに他者を従わせることは、当然のことであって正しいことであるとすら考えています。ですから、ネガティブ意識の者が、自分の意識のネガティブ性に気がつくこともありません。
ネガティブ意識の者には、普通の意味での、他者を思いやるような良心はありません。
ネガティブな意識の者でも、外見は一見誠実に見え、人間的な魅力もあったりします。そのうえ人を引きつけるような話をすることができ、話術もうまいため、外部の人に与える影響は大きいのです。
相手の人物が、利己的な意識の人物だと分った時点で、影響を受けないためにも、このような人物からは、危険人物として距離を置いた方がよいのです。


完璧なネガティブ意識の者となると、ポジティブ思考(積極的な思考)を持っており、心の中に一切の迷いはありません。意識は完全に目標に定まっており、心は集中して、意識はクリアです。そのため物事を実現化していく力が極めて強いのです。そういう者は、自分の行動すべてを完全に認識しており、自分が行うべきことを正しく把握しています。彼は決断力と実行力を持っており、その行動は正当なものであると考えています。自分の行動は、世界の改革のため、世界の平和のために行っていると考えています。そいう行動を見て周りの者は、その彼の行動と決断を賞賛することでしょう。
このような者は、社会的にも高い地位に着き、社会全体に大きな影響を与えていきます。現在の地球でも、このような者が現れれば、それによる影響は相当に大きいものがあります。

2011年7月5日火曜日

ポジティブ意識とネガティブ意識(3)

「ポジティブ意識とネガティブ意識」という場合のポジティブとネガティブという言葉の意味と、「ポジティブ思考とネガティブ思考」という場合のポジティブとネガティブという言葉の意味とが、違った意味合いを持って使われています。
同じポジティブとネガティブという言葉を使っているために、ポジティブ意識を理解するうえで、言葉の意味を混乱させる元となっています。このような意識状態を表す良い言葉が、なかなか見つからなかった、ということもあるのかもしれませんが。

ここでいう、ポジティブ意識とポジティブ思考、ネガティブ意識とネガティブ思考は、同じものではありません。言葉は似ていますが、両者は違うこと意味して使用しています。
ポジティブ意識は、他者との一体感を感じられ、他者への愛が持て、利他的行為が行える意識状態です。
ネガティブ意識は、他者とは隔絶した存在として自分をみている、何より自分を愛する利己的な意識状態です。
普通、ポジティブと言えば、どうしてもよく知られているポジティブ思考(ポジティブ・シンキング)のことを思い浮かべますが、ポジティブ意識というのは、ポジティブな思考(前向きに積極的に考えている思考)をしている意識のことではありません。


ここでポジティブとネガティブという言葉の使い方を、もう一度簡単にまとめておきましょう。

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「ポジティブ思考とネガティブ思考」での言葉の意味
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・ポジティブ思考(積極的な思考)
いつでもできると前向きに積極的(肯定的)な方向に考えるポジティブ
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・ネガティブ思考(消極的な思考)
いつでもできないと後向きに消極的(否定的)な方向に考えるネガティブ
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「ポジティブ思考とネガティブ思考」という言葉で使う意味は、顕在意識(表面意識)的な意味での考える傾向を表している(ポジティブ思考なども、さらに深いレベルの潜在意識などにもある程度は浸透させていくことはできる)。

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「ポジティブ意識とネガティブ意識」での言葉の意味
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・ポジティブ意識(利他的な他者愛の意識)
すべてと統合されたことからくる他者愛(一体感、安心感、平等感等)からくるポジティブ
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・ネガティブ意識(利己的な自己愛の意識)
すべてから分離されたことからくる自己愛(孤立感、不安感、優越感等)からくるネガティブ
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「ポジティブ意識とネガティブ意識」で使う意味は、普通の顕在意識(表面意識)というよりも、深い深層意識の話といえる。潜在意識、さらにその奥の無意識にまで入り込むようなレベルでの、無意識的な行動を規定している意識のことである。
普段使うポジティブとかネガティブという言葉とはかなり違った意味であり、日常生活では、あまり考えることのない意味での言葉の使い方である。


ポジティブ意識とネガティブ意識のどちら側にも、ポジティブ思考(積極的な思考)とネガティブ思考(消極的な思考)をもつ者は存在します。ポジティブ意識とネガティブ意識のどちらの側でも、ネガティブ思考(消極的な思考)の者より、ポジティブ思考(積極的な思考)の者は社会的に成功しやすいのです。
ネガティブな意識状態でも、ポジティブな思考(積極的な思考)によって、ネガティブ意識の持つ野望を達成していくことができます。

ポジティブ意識を持つ人がポジティブな存在と呼ばれます。ポジティブ意識では、自分の目標を達成するための考えや行動が、他者に迷惑を及ぼしている可能性や、他者にとって害悪を与えている可能性について、自分の行動が適切であるか否かを気にかけます。自分の考えや行動が、他者によくない影響を与える場合にはそれはするべきでない、というのがポジティブ意識での考え方です。
大いなるものと一体であるというポジティブな意識では、ネガティブな思考が次第に薄れ、次第にポジティブな思考が主流となってくるということはあります。大いなるものと統一しているというポジティブな意識状態がずっと続けば、大いなるものに対する信頼が増し、たとえ心の中にネガティブな思考があったとしても、それは次第に減少していくという傾向はあるでしょう。

ネガティブ意識を持つ人がネガティブな存在と呼ばれます。ネガティブ意識では、自分の目標を達成するための考えや行動が、他者に迷惑を及ぼしている可能性や、他者にとって害悪を与えている可能性につては、ほとんど考えません。自分の考えや行動は、優越した自分がすることなのだから、他者にとってどうあろうとそんなものは関係ない、そうして当たり前のことで、するのが当然の権利である、というのがネガティブ意識での考え方です。
このように考えると、何となくでもポジティブ意識とネガティブ意識の考え方の違いが分ります。


しかしながら、ネガティブ意識の中でも、前向きで積極的なポジティブ思考(積極的な思考)を持つことはできるのです。ネガティブ意識の中で、前向きで積極的なポジティブ思考(積極的な思考)を持てば、自分の野望を達成していくことができます。
ネガティブ意識の人は、自分のことをネガティブな意識状態(自己中心的な意識)だと考えることはありません。ネガティブ思考を持ったときには、後向きな消極的なネガティブ思考を感じるでしょうが、これはネガティブ意識とは違います。
ネガティブ意識の中で、ポジティブ思考(積極的な思考)を持っているときは、「おれはやってやるぞ」というような強い前向きなポジティブ思考を意識しています。ネガティブ意識の者は、自分の持っている意識が、自己中心的であり、利己的なものであることに気づくこともないでしょう。
他者とは違う優越した特別な存在である自分のために、他者を利用することも含め、あらゆることをしていきます。自分の成功のためには、他者を利用することも、支配することも、操作することも、当然のことと思っています。「特別な私のために、使ってやっている」というくらいの感覚になってきます。


例えば独裁者などには、ネガティブ意識を持つ者は多くいます。政治的な独裁者にとって、気に入らない者や邪魔な者は粛清し、その存在自体を消してしまえます。独裁者などは国民の生殺与奪の権力を持っており、敵対者や邪魔者を粛清してしまうことも多いのです。
このような独裁者でも、意識の上では悪いことをしているとは考えません。自分のしていること(反対者を処刑するようなこと)は、国家の平和のために、国家の統一のためにしていることであり、国民のために良かれと思ってしていると考えています。

粛清などしないような選挙で大統領となったような者の中にも、ネガティブ意識を持った者はいるのです。こういう者はネガティブ意識であろうとも、行動においてネガティブ思考は持たず、前向きなポジティブ思考(積極的な思考)の塊であり、社会的には大成功者であると見られています。
こういうネガティブ意識を持ちながら権力を握った者にも、物事を推進していくというポジティブ思考(積極的な思考)は持っていますし、自分自身や家族への愛も持っています。

選挙で大統領となるような人は、その人の本質的な意識は、ネガティブ意識であろうと、普通の意味でのポジティブ思考を強く持っているからこそ、選挙で大統領にまでなれたといえます。
このような人物は、行動でみせるポジティブ思考(積極的な思考)のようなものとは違う、外見からは伺い知れない、本質的なネガティブな意識(利己的な分離意識)で心の中が占められていることもあります。


彼らはネガティブ意識でありながら、行動においてネガティブ思考(消極的な思考)は持っていないのです。ネガティブ意識とは、ネガティブ思考(消極的な思考)のような、消極的で落ち込んだような意識状態の人のことではないのです。彼の意識は、ポジティブ思考(積極的な思考)のような、積極的で前向きな状態かもしれません。
このようなネガティブ意識の人たちは、他者のことを顧みないということだけで、実際的な行動ではポジティブ思考で利己的な成功を目指しています。

これはマフィアのような裏社会を思い浮かべると、何となく分るのではないかと思います。マフィアで成功した首領(ドン、組長)は、ポジティブ思考を持ち、自分の組織をどんどんと大きくしていくためには、いろいろな知恵をだして、あらゆる手段を使います。また首領(ドン、組長)は、自分の家族(娘や息子)には、大変な思いやりと愛を示すかも知れません。自分の娘のためには、あらゆる犠牲を払うかもしれません。しかし自分の組織にとっての邪魔者は、波止場の暗闇の中で、どこかの港湾に重りを付けて、沈めてしまう行動も取ります。邪魔者を消しても、何も気にかけることはありません。自分とは関係のない全くの他者ですから、その邪魔者に家族がいようと、どんな事情があろうと、そんなことを気にすることはありません。


このように、ネガティブな意識であろうと、ポジティブな思考(積極的な思考)を持って、自分の組織を大きくしていくことができ、自分自身や自分の家族に向けるような愛は持てるのです。この愛は自分とって大切でない者には、決して向けられることはありません。誰に対しても等しく向けられるような愛ではなく、自分にとって大切な者にしか向けられない利己的な愛といえます。

2011年7月3日日曜日

ポジティブ意識とネガティブ意識(2)

前向きに積極的に考えている意識(やる気になっているポジティブ思考)のことが、ポジティブ意識やポジティブな存在ではないということです。同じく、後向きに消極的に考えている意識(落ち込んだネガティブ思考)のことが、ネガティブ意識やネガティブな存在ではないのです。
ではここでいう「ポジティブ思考とネガティブ思考」の意味とは違う、「ポジティブ意識とネガティブ意識」とは、人の持つどんな意識状態のことを指して言っているのでしょうか。

少し突き詰めてポジティブ意識(ポジティブな存在)とネガティブ意識(ネガティブな存在)について、この意識が何を指しているのか、どんな意識状態なのか、深く考えてみることにしました。ポジティブ思考という場合と、どこか似ているように思えるところもあり、突き詰めて深く考察してみないと、ポジティブ意識と言う場合のポジティブが何を意味しているのか、その違いがよく理解できないのです。
しばらく、いろいろと考えた結果として、次第に分ってきたことがあります。
それは、ポジティブ意識とネガティブ意識とか言っていることは、次のような意識のことを意味しているのだな、ということです。


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・ポジティブ意識(利他的な他者愛の意識)
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私もあなたも同じ存在であり、自分と他者の区別はなくなり、等しく大切な存在として感じられる意識状態である。他者に対しても、自分がしてほしいと思うことをしてあげられる意識である。
ここから、大いなるものと統一されているという意識状態が生まれ、自分は他者を含むすべて(宇宙とも)と一体と感じられる意識状態が生まれてくる。
すべてと一体と感じられるので、孤独感はなくなり、一体感、安心感、平等感、さらに気分の高揚感が感じられる。

他者も自分も本質は同じであるから、自分も、自分以外のすべての他者も、同等の大切な存在として扱う。他者も自分と同等な存在であるから、他者を支配し、利用しようとしない。他者を支配し利用しようとしないから、他者の自由意志を尊重し、他者を操作(コントロール)しようとしない。
自分も他者も同じであるから、他者より自分の方が価値があるというような優越感はない。

ポジティブ意識の者は、自分にとって自分自身が大切なように、他者も自分と同様に大切に思えるため、他者への奉仕者になる。
ポジティブ意識の者は、自分も愛し、同様に他者を愛することのできる意識状態である(他者愛の意識)。

ポジティブ意識を別の言葉で言い換えると、(すべてとの、他者との)統合意識、(すべてとの、人類との)全体意識、(人類との、他者との)一体意識、(他者との)平等意識、(全体への、人類への)他者奉仕意識、利他的意識、というような名称となる。

大いなるものと統一されたという意識状態になると、これはインド哲学の代表であるヴェーダンタ哲学でいうところの、梵我一如(ぼんがいちにょ)に近い意識状態ということになる。
梵我一如とは、宇宙に遍満している宇宙意識(ブラフマン、「梵、大我」と訳される)と、個人個人の持つ個別意識(アートマン、「我、個我、真我」と訳される)が、本来は同一のもの、一体の同じものと感じられる意識状態のことである。

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・ネガティブ意識(利己的な自己愛の意識)
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私とあなたは別の存在であり、自分と他者の区別は厳然と存在していると感じられる意識状態である。他者に対しては、利用価値があれば自分の考えに合うように支配し、他者を利用しようとする意識である。
ここからは、大いなるものと統一されているという意識状態は生まれず、すべてと一体とは感じられないので、自分は他者とは分離しているという意識状態が生まれてくる。
他者を含むすべて(宇宙とも)と一体とは感じられないので、孤独感、不安感、他者に対する優越感、他者を支配したいという支配欲を持っている。

他者は自分と同様ではないのだから、自分の考えに合うように、他者を支配し、利用しようとする。他者を支配し利用しようとするから、他者の自由意志を尊重せず、他者を操作(コントロール)しようとする。
自分は特別な存在であり、他者より自分の方が価値があるというような優越感が感じられる。

ネガティブ意識の者は、何より自分を愛し大切であるため、自己中心的となり、自己(自分自身)への奉仕者、利己主義者になる。
(他者への奉仕者にはならないが、偽善的な見せ掛けの行動は取ることがある)。
ネガティブ意識の者は、何より自分を強く愛している意識状態である(自己愛の意識)。何より自分を強く愛しているので、自己中心的であり、利己的である。

ネガティブ意識を別の言葉で言い換えると、(すべてとの、全体との、他者との)分離意識、(選ばれた特別な存在である、他者より優れているという)優越意識、(他者を支配したいという)支配意識、(優越した自分への)自己奉仕意識、利己的意識、というような名称となる。

どこまで行っても、自分と他者は別の存在であるので、大切なのは何より自分である。対象範囲を広げても大事なのは、自分の家族や考えに合う者たちだけである。自分以外のすべての他者を、自分と同等の大切な存在として扱うことはない。
基本的に利己主義者は、ネガティブ意識といえるが、ネガティブ意識という言葉には単なる利己主義者という以上の意味がある。利己主義者は自分と家族のような者だけが大切であり、自分が良ければ良い、自分に関係する者だけが良ければ良いという考えを持っている。

ネガティブ意識の者は、何より自分を愛しているので、自己中心的、利己的であるだけでなく、自分の考えに合うように、他者を支配し、操作しよう、利用しようとする意識を持つ。
他者の持つ自由意志は尊重しないが、そのことに罪悪感は持っておらず、選ばれた自分の権利であり、大儀のためには当然のことであるとすら考えている。

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このような意識の分類は、普段、普通の人があまり考えない考え方です。事前に説明がないと、考えたことがない人には、ポジティブ意識といっても、すぐには何を指すのか、なかなか理解できないかも知れません。
ポジティブ意識という言葉と、普段よく聞くポジティブ思考とは、言葉が似ているため混同しやすいのです。ポジティブ思考でのポジティブと似ていますが、違う意味を指しています。日常的な意味でのポジティブやネガティブとは、ここで使っている意味は異なった意味合いとして使われています。


普通はポジティブな人とか、ポジティブな存在という場合は、いつも明るく振舞っている、積極的で前向きに考える人のことを指します。同じようにポジティブな意識というのも、いつも明るく振舞い、積極的で前向きに考える人の意識のことだろうと思ってしまうのです。
ここでのポジティブな意識というのは、いつも明るく振舞っている、積極的で前向きに考える人のことではなく、他者も自分と同じとみる、他者への愛を持てる利他的な、他者と一体となった意識状態です。とはいえ純粋なポジティブ意識を持続できれば、心の中に、すべてと一体という安心感が生じてきますから、次第にポジティブな気持ちが強くなってはきます。

反対にネガティブな意識というのは、いつも暗く沈んだ感じを与える、消極的で後向きに考える人のことではなく、他者は自分とは違うとみる、何より自己を愛する利己的な、他者と分離された意識状態です。
ネガティブ意識の人も、見た目は明るく振舞うこともでき、積極的で前向きなポジティブ思考は持てます。ネガティブ意識の人の、前向きで積極的な姿勢やその熱意の中には、他者への温かみはなく、利己的であり、ときには悪意のようなものも混じるかもしれません。
ネガティブ意識の人も、何より大事な自分のために、前向きで積極的な心構えで行動できます。しかしながら、何より自分が大事であるため、彼らは他者の自由意志を尊重せず、他者を利用するために操作(コントロール)しようします。その理由の一つは、他者との一体感や同一感は感じられないため、自分にとっては価値のない他者を、自分の利益になるように支配し利用したい思いがあるからです。


成功者と呼ばれる人の中にも、ネガティブな意識状態のままの者もいます。彼らは、他者とは分離されていると感じるネガティブな意識の者ですが、ネガティブ思考は持っておらず、ポジティブ思考で行動します。そのために、立居振る舞いに人間的な魅力さえ感じさせることができます。
こういうネガティブ意識の人たちの特徴の一つは、振る舞いに人間的な魅力があろうと、考え方の中心は自己中心的、利己的であり、他者のことを顧みないということがあげられます。ネガティブ意識の人は、他者を含むすべての存在から分離していると感じられるで、他者を支配したい、自分の利益に合うように利用したい、思いどおりに動かしたいという感覚を持っています。

ネガティブ意識の者は、基本的に自己中心的であるため、独善的な傾向もあり、自分のやる事はいつも正しいと思い勝ちになります。通常は、ネガティブ意識の人は、自分のことをネガティブな意識であると思うことすらないでしょう。ネガティブ意識の人が、自分で自分の意識が、ネガティブな意識状態(利己的な分離意識)であることに気づくことは難しいのです。


ネガティブ意識では、他者のこうむる迷惑や感情につては、自分とは関係ないことなので、自分の意識の中には登ってこないのです。他者の心の痛み(自分が同じ事をされたらどう感じるか)など、ネガティブ意識では想像することも共感することもできません。他者の心の痛みには、自分だったらどう思うかというようなことには、まったく無頓着です。そういう意味では、ネガティブ意識の者は、人の心が分らない人でもあります。
自分と他者とは厳然として区別されていますから、ネガティブ意識の人にとっては、他者のことを気にかける必要性はありません。ネガティブ意識にとっては、自分と関係ない他者が、どうなろうと知ったことではないのです。

ネガティブ意識の者(ネガティブな存在)でも、実際的な行動という点ではポジティブ思考の塊かも知れません。ただしネガティブな意識状態の者は、自己中心的な利己的な自分の成功を目指しています。

2011年7月1日金曜日

ポジティブ意識とネガティブ意識(1)

スピリチュアルな本の中には、ポジティブな存在や、ネガティブな存在の話がでてきます。宇宙の中でのポジティブ側と、ネガティブ側との長年に渡る争いの話が出てくる本もあります。
ポジティブな意識とネガティブな意識、ポジティブ側とネガティブ側、ポジティブな存在とネガティブな存在など、いろいろな言い方がありますが、ほぼ同じ事を指しているようです。
ネガティブ側のことを、ダークサイドと言う人もいます。そうするとポジティブ側はあまり聞きませんが、ライトサイドと呼ぶべきでしょうか。

ポジティブ意識の側からネガティブ意識の側へ行く事をダークサイドに落ちた、という言い方もあります。このような娯楽映画もあります。そうはいっても、ダークサイドだからといって、必ずしも悪人然としているわけではありません。ダークサイドだから黒い服を着たり、犯罪者のようであるわけではありません。ダークサイドであろうとも、外見上はあまり変わらないのです。
ネガティブ意識の存在は、単純な意味での悪いやつらではありません。どこか宇宙のかなたの話ではなく、私たちの周りにはポジティブ意識の人間もネガティブ意識の人間もいます。ネガティブ意識の人間だからといって必ずしも犯罪者ではなく、普通の人として一緒に暮しています。
ではダークサイド(ネガティブ側)では、何が意識の上でライトサイド(ポジティブ側)と変わるのでしょうか。これが良く分りません。


根本に戻って、考えてみることにします。ここで使われている言葉である、ポジティブ側とネガティブ側とか、ポジティブ意識とネガティブ意識とは、どんな意味で用いられているののでしょうか。
今ひとつ意味がはっきりしないと思っていました。私にはニューエイジなどで述べられている、解説を読んでも良くつかめなかったのです。

ポジティブな存在は、愛や光に満ちたものであると説明するものもありますが、これも意味を正確には表してはいません。ここでいう愛や光に満ちているというのは、ポジティブ意識の存在が持つ、派生した特徴の一つにすぎないのではないでしょうか。
また、ポジティブな存在は人の自由意志を尊重し人を操作しない、一方ネガティブな存在は人の自由意志を尊重せず人を操作する、という説明もありました。これもポジティブな存在は、なぜ人の自由意志を尊重するのかというの説明がなく、ポジティブな意識の本質というより、やはり派生した特徴の一つにすぎないように思えました。
これだけの説明では、ポジティブ意識とは何かの定義にはなりません。これはポジティブな意識が、どんな意識なのか、何を指してポジティブな意識と言っているのかがよく分らないのです。


最初、ポジティブな意識とは、自己啓発書でいうポジティブ思考(ポジティブ・シンキング)のことかと思ったりしました。普通、世間一般ではポジティブというと、ポジティブ・シンキングのことを指していることが多いと思います。ポジティブ思考(ポジティブ・シンキング)は、一般にも書籍などで知れ渡っています。

ポジティブな意識という場合は、確かにポジティブではあるのでしょうが、どうも何か意味合いが違うように感じました。しかしその違いが何なのか、違いがどこにあるのか、が分らなかったのです。
ポジティブ・シンキングでいうような、ポジティブ思考している意識を指して、ポジティブな意識存在と言っているようには思えませんでした。

ポジティブ思考とは、いつでも前向きに積極的に考えることですが、ここでいうポジティブ意識は、単純なポジティブ・シンキングの意味とは違っているように思われます。

一般的なポジティブ思考(ポジティブ・シンキング)の考え方は、次のようなことでしょう。

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・ポジティブ思考(ポジティブ・シンキング)
物事を積極的(肯定的)な方向に考える思考のことである。
何事でも、できると前向きに積極的に考えて、物事に取り組む姿勢を指す。
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・ネガティブ思考(ネガティブ・シンキング)
物事を消極的(否定的)な方向に考える思考のことである。
何事でも、できないと消極的に考えてから、物事に取り組む姿勢を指す。
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ポジティブ思考(前向きに積極的に考えて取り組む)と、ネガティブ思考(後向きに消極的に考えて取り組む)という意味ならば、誰でもポジティブ思考が良いに決まっています。ポジティブ思考の、前向きに積極的に考えて取り組まなければ、社会的な成功も難しいでしょう。
ポジティブ思考の人とネガティブ思考の人とが、何かについて争った場合を考えて見ましょう。積極的に考えるポジティブ思考の人が、消極的なネガティブ思考の人を圧倒してしまうのではないでしょうか。争いにもならない、一方的なポジティブ思考の人の勝利のように思えます。これでは、ポジティブ側とネガティブ側との、長い争いにはならないでしょう。

このことから自己啓発書でいう「ポジティブ思考とネガティブ思考」と、スピリチュアルな本の中に出てくる「ポジティブ意識とネガティブ意識」、「ポジティブ側とネガティブ側」、「ポジティブな存在とネガティブな存在」という場合のポジティブ・ネガティブの意味とは、少し意味合いが異なって使われていると感じていました。

「ポジティブ意識とポジティブ思考」、「ネガティブ意識とネガティブ思考」、言葉の使い方が大変良く似ていますが、これだけでは同じことを指しているのか、違うことを指しているのかが、はっきりとは分りません。どうも意味合いに似た部分もありますが、本質的に違う部分もあるようです。その違いがどこにあるのかが分りません。このことについて、明確に説明したものも見たことがありませんでした。

ある人が、他の人にポジティブ意識の話をする場合を考えてみましょう。ポジティブ意識やネガティブ意識の内容について詳しい説明がなくて、初めからポジティブな意識が大事だと言われる場合があります。この場合、言われた相手はポジティブ意識がどんなものか正しく認識できているでしょうか。多分、その人が思うところのポジティブという言葉から、何となく連想するポジティブの意味内容を思い浮かべているだけではないでしょうか。話している二人の間では、ポジティブという言葉の意味の上では、正確なコミュニケーションができているのかどうか、という問題が生じてます。話していることが相手には、正確に伝わらないかも知れません。


ここで、もう少し意味をはっきりとさせるために、ポジティブ・ネガティブという言葉から連想する事柄をまとめてみましょう。

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・ポジティブという言葉から連想する事柄
前向き、積極的、肯定的、熱意、浮き浮きした高揚感、
他者への愛、利他的、思いやり、善意、善、
明るい、楽しい、うれしい、喜び、愛しい、好き、幸せ
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・ネガティブという言葉から連想する事柄
後向き、消極的、否定的、やる気のない、暗く落ち込んだ沈滞感、
自己愛、利己的、自分勝手、悪意、悪、
暗い、悲しい、寂しい、恨み、憎しみ、嫌い、不幸せ
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同じポジティブという言葉で表されても、積極的な人と、浮き浮きした高揚した状態の人、善意ある人とは、同じ意味ではないですね。積極的なことと、善意のあることとは、特段の関係もありません。浮き浮きした精神状態であるからといって、善意があるわけでもありません。
同じネガティブという言葉で表されても、消極的な人と、暗く落ち込んだ沈滞した状態の人、悪意ある人とは、同じ意味ではないですね。消極的なことと、悪意のあることとは、特段の関係もありません。むしろ消極的なら、悪意も持てないことが多いのではないでしょうか。暗く落ち込んだ状態であるからといって、悪意があるわけでもありません。


ポジティブ、ネガティブと一言で言ってしまうと、何か同じ意味のことを指しているように思えてしまいます。ですが、実はその言葉が表している内容は、多様に渡るのです。ポジティブ、ネガティブという言葉の意味の幅は、かなり広いのです。
ポジティブの意味の中で、「前向き、積極的、肯定的、熱意」までは、ポジティブ思考の意味の中に含められるでしょう。浮き浮きした高揚した精神状態は、ポジティブ思考の結果もたらされたものでしょう。
「他者への愛、利他的、善意、善」などは、ポジティブ思考とは違う意味の利他的なポジティブな事柄の範疇にはいります。
「明るい、楽しい、うれしい、喜び、愛しい、好き」などは、ポジティブな感情というべきものでしょう。この感情から、幸せ感が生まれます。

同じく、ネガティブの意味の中で、「後向き、消極的、否定的、やる気のない」までは、ネガティブ思考の意味の中に含められるでしょう。暗く落ち込んだ沈滞した精神状態は、ネガティブ思考の結果もたらされたものでしょう。
「自己愛、利己的、悪意、悪」などは、ネガティブ思考とは違う意味の利己的なネガティブな事柄の範疇にはいります。
「暗い、悲しい、寂しい、恨み、憎しみ、嫌い」などは、ネガティブな感情というべきものでしょう。この感情から、不幸せ感が生まれます。


いろいろと調べてみると、ネガティブ意識の人(ネガティブな存在)であると言われる人の中にも、歴史的、社会的に大きな影響を与えた権力者(統治者、独裁者、大統領等)、成功者のように見える人もいます。ネガティブ思考(消極的に考えて取り組む考え方)では、これが可能だとはとても思えません。ネガティブ意識の人(ネガティブな存在)でも、ポジティブな思考(前向きに積極的に考える)を持っていなければ、大きな政治権力を持つような権力者にはなれないのではないでしょうか。
すると、ネガティブ意識は、ネガティブ思考とは違うということになります。

このことから、ネガティブ意識を持つ人とは、いつでもできないと後向きに考える消極的な人のことではない、ということになります。ネガティブ意識でありながら、ポジティブな思考(前向きに積極的に考えて取り組む考え方)を持つことができるのです。ネガティブ意識の人が、消極的で落ち込んでいるわけではないということです。
ネガティブ意識とは、何もできないと消極的に落ち込んだ精神状態のことではなさそうです。ネガティブな意識は、ネガティブな思考を持った人のこととは違うということになります。

ではポジティブな意識とかネガティブな意識とかいっている、このポジティブとネガティブという言葉は、どんな意味で使用しているのでしょうか。そして、ポジティブな意識とネガティブな意識では、何が基本的に違うのでしょうか。