ポジティブ意識とポジティブ思考の違い、ネガティブ意識とポジティブ思考の違いについては、説明しました。
この意味合いの違う、ポジティブ意識とポジティブ思考ですが、確かに意味合いが違うのですが、関連する部分もあります。ポジティブ意識の状態の時にはポジティブ思考がしやすく、ネガティブ意識の状態の時にはネガティブ思考に陥りやすいということがあります。そのために混同されることも多かったと思います。
ポジティブ意識の状態の時には、ポジティブ思考がしやすいということがあります。
ポジティブ意識のときには、ポジティブな感情(明るい、楽しい、うれしい、喜び、愛しい、好き、幸せ)になっていることが多いと思われます。
誰でも、嬉しいときや幸せなときは、世界全体が幸せに輝いていて、一緒にいてくれるように感じます。幸せなときには、あんまり自分のこと考えていません。その上、何でも前向きに積極的に考えられます。
これは、嬉しいときや幸せなときは、利他的なポジティブ意識(利他的な全体的な意識)が高まることを表しています。この状態の時には、ポジティブ思考(前向きな、積極的な心構え)もしやすいはずです。
ネガティブ意識の状態の時には、ネガティブ思考に陥りやすいということがあります。
ネガティブ意識のときには、ネガティブな感情(暗い、悲しい、寂しい、恨み、憎しみ、嫌い、不幸せ)が生じやすく、その感情に捕らわれていることが多いと思われます。
悩みの中にいるときや恨んでいるときには、自分のことや自分の都合ばかり考えていることが多いのではないでしょうか。悩みの中にいるときには、独りきりです。自分や自分の都合を優先して考えると、人間は不幸を感じるようにできています。
これは、悩んでいるときや恨んでいるときは、利己的なネガティブ意識(利己的な個別的な意識)が高まることを表しています。この状態の時には、ネガティブ思考(後向きな、消極的な心構え)になりやすいものです。
このように、ポジティブ意識(利他的な全体的な意識)と、ポジティブ思考(前向きな心構え)は違いますが、関連性はあるのです。そのため、混同されることも多かったと思われます。
今の世の中は、全体的にはネガティブ意識が強いような傾向があると思われます。前向きな心構えのできるネガティブ意識の強い人が、社会でも強い立場に立っているのではないでしょうか。この社会の状況を憂えている人は多いと思います。
ニューエイジの世界では、今の社会は一時的に悪くなるとしても、そのうちいずれ理想の世界が訪れるような話もあります。それが果たして本当なのかどうかは知りませんが、自分が死んで何十年、何百年後のことでは、どういう社会なのか考えてもあまり意味がありません。
そんなはるか先の世界のことよりも、今現在の状況がネガティブ意識の強い世界だということの方が、自分自身に与える影響という点からは重要です。
日本においても、毎年ホームレスの人が寒さなどで何人も死んでいっていますが、ほとんどの人は気にかけません。本当に困っている人を助ける人もまれです。株などで相当儲けたような金持ちでも、慈善事業などにあまり寄付はしません。
こういう社会状況の中で、自分の意識をポジティブ意識にし、その状態を保っていくためには努力も必要になります。
自分の意識をポジティブ意識に保つための方法の一つが瞑想です。しかしながら瞑想をはじめても、なかなか宇宙との合一、すべてとの合一のようなサマーディ状態には入れません。このような状態には、かなりの努力をしても一生入れないかもしれません。誰でもすぐにサマーディに入れるなら、ポジティブ意識を持つこともたやすいことです。(ただしサマーディ状態になったからといって、仏教でいうニルヴァーナではありません。)
最初は誰でも取り組める初歩的な段階から始めるしかありません。そのために慈悲の瞑想などがあります。
精神世界(ニューエイジ)雑感
精神世界やニューエイジで感じた感想を記述しておきたいと思います。
2011年7月25日月曜日
2011年7月23日土曜日
気づかないネガティブ意識
ネガティブ意識は、自分の意識に注意していないかぎり、普通の人ならば誰にでも生まれやすいものです。もう少し詳しく、ネガティブ意識には、どんなものがあるのか、どんな意識なのか検討していきましょう。その意識内容を知ることで、そうならないよう気をつけることもできます。
例えば、誰か(他者)を冷ややかに相手を見下すことは、ネガティブ意識を生み出します。言葉を変えれば、相手を見下すということは、相手を馬鹿にしているということでもあります。簡単に他者に対して、そういうことをしてしまう人もいます。気付かないくらい無意識に相手を見下すことをやってのけてしまう人もいます。このような意識もネガティブ意識を生み出します。
こういう場合は、身に染み付いた無意識的な行動ですから、自分の高慢さに気づいていません。
自分で気づかなくても、しかし相手は気づきますから、相手を傷付けます。この意識状態はネガティブな意識です。
他者を見下し、相手を軽視することは、次のような意味を持っています。
・他者(相手)に敬意を払っていないこと
・他者(相手)を大切にしていないこと
・他者(相手)に価値を認めていないこと
・他者(相手)の努力を認めていないこと
・他者(相手)の考えを認めていないこと
・他者(相手)の想いを理解しようとしていないこと
・他者(相手)の立場を考えていないこと
・他者(相手)の見方を無視していること
外面だけはどんなに立派そうに格好をつけてみても、善人のような優しそうな顔をしていたとしても、他者(相手)を軽視してしまうことは、他者(相手)を大切にはしていないといえます。
ディベートが得意で議論で相手をやり込める技術にたけていても、他者(相手)を見下していては相手の信頼を得ることはできません。相手を軽視していることは、相手の価値を認めていないことだからです。
それはつまり、他者(相手)への愛とは逆の行為(愛のない状態)といえます。他者(相手)への愛のない状態は、ネガティブ意識そのものです。
愛と逆のものは、憎しみではなく、愛がない状態のことです。憎しみは、また別の意識の状態であり、憎しみの逆は、憎しみがない状態です。
他者を軽視することは、自分には次のような意味を持っています。
・自分自身に敬意を払っていないこと
・自分自身を大切にしていないこと(愛していない)
他者(相手)を見下すことは、大した理由のないプライドの高さがあります。またその裏側には、何か根深い自己卑下も存在していることが多いのです。
相手への軽視は、相手への愛のない状態のことです。これは自分も本当には愛していないのではないでしょうか。
相手への軽視とは、自分の心の中にある闇の意識(つまりネガティブ意識)です。この闇の意識(ネガティブ意識)は、ほうっておくと、どんどん発展していきます。
他者を軽視する意識 → 利己的な意識 → 悪意を持つ意識 → 悪と呼ばれる行為を行える意識
他者を傷つけるような行為は、一般に「悪」と呼ばれます。「悪」にははっきりとした定義があるわけではなく、通常は自分や他者を傷つける行為を指しています。
ネガティブ意識が強くなれば、一般に「悪」と呼ばれるような行為すら躊躇なく行えるようになります。「悪」を行うことは、他者を傷つけるだけでなく、自分の潜在意識、深層意識も傷つけ、次第にネガティブ意識が強くなっていきます。
そうすると自分の深層意識が悪の意識(強いネガティブ意識)に染まり始めます。
仏教などの思想では、自分の行うすべての行為には反作用があります。自分の行う行為は、深層意識の中に、いわば痕跡のようなものを残します。その深層意識の中にある痕跡が反作用を生み出します。その反作用のことをカルマ(行為を意味する)とか、仏教用語で「業」と呼んでいます。カルマとは宿命ではなく、自分の行為の結果としての反作用のことです。
悪業を行えばその反作用として、それにふさわしい結果をいつか(輪廻思想があり来世も考えます)招くことになります。
これに対して他者を愛し助ける行為は、善業と呼ばれます。これはいつか良い結果を招くというだけでなく、自分自身の解脱や修行を助けます。
まず他者を愛し助ける行為を行うことは、ネガティブ意識に染まらずポジティブ意識を保つために重要です。
例えば、誰か(他者)を冷ややかに相手を見下すことは、ネガティブ意識を生み出します。言葉を変えれば、相手を見下すということは、相手を馬鹿にしているということでもあります。簡単に他者に対して、そういうことをしてしまう人もいます。気付かないくらい無意識に相手を見下すことをやってのけてしまう人もいます。このような意識もネガティブ意識を生み出します。
こういう場合は、身に染み付いた無意識的な行動ですから、自分の高慢さに気づいていません。
自分で気づかなくても、しかし相手は気づきますから、相手を傷付けます。この意識状態はネガティブな意識です。
他者を見下し、相手を軽視することは、次のような意味を持っています。
・他者(相手)に敬意を払っていないこと
・他者(相手)を大切にしていないこと
・他者(相手)に価値を認めていないこと
・他者(相手)の努力を認めていないこと
・他者(相手)の考えを認めていないこと
・他者(相手)の想いを理解しようとしていないこと
・他者(相手)の立場を考えていないこと
・他者(相手)の見方を無視していること
外面だけはどんなに立派そうに格好をつけてみても、善人のような優しそうな顔をしていたとしても、他者(相手)を軽視してしまうことは、他者(相手)を大切にはしていないといえます。
ディベートが得意で議論で相手をやり込める技術にたけていても、他者(相手)を見下していては相手の信頼を得ることはできません。相手を軽視していることは、相手の価値を認めていないことだからです。
それはつまり、他者(相手)への愛とは逆の行為(愛のない状態)といえます。他者(相手)への愛のない状態は、ネガティブ意識そのものです。
愛と逆のものは、憎しみではなく、愛がない状態のことです。憎しみは、また別の意識の状態であり、憎しみの逆は、憎しみがない状態です。
他者を軽視することは、自分には次のような意味を持っています。
・自分自身に敬意を払っていないこと
・自分自身を大切にしていないこと(愛していない)
他者(相手)を見下すことは、大した理由のないプライドの高さがあります。またその裏側には、何か根深い自己卑下も存在していることが多いのです。
相手への軽視は、相手への愛のない状態のことです。これは自分も本当には愛していないのではないでしょうか。
相手への軽視とは、自分の心の中にある闇の意識(つまりネガティブ意識)です。この闇の意識(ネガティブ意識)は、ほうっておくと、どんどん発展していきます。
他者を軽視する意識 → 利己的な意識 → 悪意を持つ意識 → 悪と呼ばれる行為を行える意識
他者を傷つけるような行為は、一般に「悪」と呼ばれます。「悪」にははっきりとした定義があるわけではなく、通常は自分や他者を傷つける行為を指しています。
ネガティブ意識が強くなれば、一般に「悪」と呼ばれるような行為すら躊躇なく行えるようになります。「悪」を行うことは、他者を傷つけるだけでなく、自分の潜在意識、深層意識も傷つけ、次第にネガティブ意識が強くなっていきます。
そうすると自分の深層意識が悪の意識(強いネガティブ意識)に染まり始めます。
仏教などの思想では、自分の行うすべての行為には反作用があります。自分の行う行為は、深層意識の中に、いわば痕跡のようなものを残します。その深層意識の中にある痕跡が反作用を生み出します。その反作用のことをカルマ(行為を意味する)とか、仏教用語で「業」と呼んでいます。カルマとは宿命ではなく、自分の行為の結果としての反作用のことです。
悪業を行えばその反作用として、それにふさわしい結果をいつか(輪廻思想があり来世も考えます)招くことになります。
これに対して他者を愛し助ける行為は、善業と呼ばれます。これはいつか良い結果を招くというだけでなく、自分自身の解脱や修行を助けます。
まず他者を愛し助ける行為を行うことは、ネガティブ意識に染まらずポジティブ意識を保つために重要です。
2011年7月21日木曜日
ポジティブ意識になるための方法(3)
ポジティブ意識になるために仏教の修行(瞑想)などを行う場合を考えてみましょう。
瞑想方法が発達しているのは、仏教(南伝仏教、チベット仏教)、ヨーガ(インドの各種修行)などです。修行としての瞑想以外にも、各種の瞑想法が工夫され伝えられています。
仏教の修行の目的は、ニルヴァーナへ到ること(解脱)です。一般的なポジティブ意識になることを目的とはしていません。そのため人生最大の目的がニルヴァーナ(解脱)であるという発想がないと、仏教の修行自体行う意義を見出すのが難しいかも知れません。
ヨーガなどのインドの多くの宗教的な修行の目的も解脱です。ヨーガやヴェーダンタ哲学関連の修行は仏教ではないので、解脱とは言いますがニルヴァーナへ到るというような言い方はしません。
仏教的な見地からみれば、仏教のニルヴァーナとヨーガなどのインドの宗教の解脱とは意味が違います。しかしその違いはどの程度のものか、どこが違うのか、違いは微妙であり、判断には高いレベルの修行成果が求められます。
一般的な仏教の修行などを行うにしても、その修行の結果が出てくるまでには、かなりの長い時間がかかるのが普通です。はじめてすぐに何らかの結果が出てくるような人はまれです。出家者でも、何年も、あるいは何十年も、一生かけても到達できるかどうかというようなものです。ニルヴァーナへ到ることは仏教の究極の目的ですから、これに価値を見出す場合には人生をかけなければできないのではないでしょうか。
一般の人が、ポジティブ意識になるためにする方法としては、かなりハードルが高く、取り組むことが難しいものになってしまいます。
瞑想でポジティブ意識になるといっても、瞑想方法にはいろいろなものがあります。どれが効果のあるものなのかの見極めがかなり難しいのです。
信頼できる先生について学ぶのでなければ、効果的な瞑想法を学べません。でなければ、何年もかけて瞑想を行っても、あまり効果がなかったということにもなりかねません。
座禅も瞑想法の一種といえますが、普通の人が取り組んで何かの効果をあげるには、少し困難があるようにも思われます。
瞑想をはじめても、宇宙との合一状態のようなサマーディにまで入れる人はまずいません。サマーディに入れるほどの深い瞑想状態に到達することは、何十年も瞑想を実践していても難しいことです。いつでもサマーディに入れるレベルまで到達できれば、ポジティブ意識を持つこともたやすいでしょう。ですが普通の人は、そうはいきません。
サマーディに到るような瞑想もするべきかもしれませんが、ポジティブな意識を持つためであれば、あまりに時間がかかりすぎます。そもそもサマーディには入れないかもしれません。
普通人は、もう少し誰でも取り組めることから、始めるしかありません。そのために慈悲の瞑想などがあります。これならば誰でも少し努力すればできることです。
この瞑想は自分の慈悲心を増大させるだけでなく、心を癒す働きもあります。
ポジティブ思考をしようと思っても、なかなかうまくいかない場合があります。心の中に、いろんなわだかまりやこだわり、悩みや怒り、恨みなどを抱えていると、なかなか前向きな思考ができません。
心の中に、いろいろな悩み、苦しみ、わだかまり、怒り、恨み、憎しみ、悲しみなどの感情がある場合、なかなか深い瞑想には入れません。
そんなときには、無理にポジティブ思考をしようをせず、まず視点を変えてみることが大事です。
そのような場合は、深い瞑想に入れるようになる前に、まず自分自身の心を癒すことからはじめましょう。顕在意識(表面意識)より深いところにある、潜在意識、深層意識にある心を癒しましょう。
慈悲の瞑想などを行い、少しでもポジティブ意識の状態になるように努力してみましょう。
少しでもポジティブ意識の状態になってからなら、ポジティブ思考することもたやすくなっているはずです。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
ホ・オポノポノなども、自分自身の心を癒すことに繋がります。慈悲の瞑想も、自分の心を癒すことになります。
ホ・オポノポノの、中核概念は、世の中(自分が体験する世界)に起こる全ての出来事(良いこと悪いことを含めて)は、自分自身の潜在意識のなかの記憶が再生されている事象であり、それは全て体験している、わたし自身が100%対処できるものとして関与しているもの(責任)である。
日本語で責任というと、「お前の責任だ」というような、相手に責任を押し付けるような言い方に聞こえますが、ここでの「責任」は、いわゆる日本語的な「責任」ではなく、対処出来るものとして関与できる、関与しているという意味合いで解釈します。
ホ・オポノポノにおける潜在意識は、ハワイ語で「ウニヒピリ」と呼ばれ、深層意識(インナーチャイルドと呼ばれています)と同義語として扱われています。厳密に言えば潜在意識と深層意識は分けるべきでしょうが、ここではどちらかというと、より深い潜在意識(深層意識)の意味で用いています。
実践方法はシンプルであり、問題を解決するために自分自身の潜在意識に、次の四つの言葉を繰り返すものです。
四つの言葉は、別の同じような意味の言葉に変えても、どの順番でもかまいません。さらに四つの言葉すべてを言わなくても、一番心にしっくりくる言葉だけでもよいのです。
「ごめんなさい」「許して下さい」「ありがとう」「愛しています」
これを伝えることで、潜在意識下の記憶が消去され、心が癒されます。この四つの言葉やクリーニングは、自分自身に対してまず行います。まず自分をしっかりと、クリーニングします。
ホ・オポノポノの世界観で、世の中を観て生き始めると、記憶は完全にはなくならないけれど、クリーニング以前のように、無意識に記憶にコントロールされてしまうということは減ってきます。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
行動でポジティブ意識になる方法についても考えて見ましょう。
行動でポジティブ意識になる方法というのは、人を傷つけるようなことをせず、人を助ける行動をとることです。人を助ける行動は、意識をポジティブな方向へと持っていきます。この行為は、ポジティブ意識の人が行う行為です。ボランティア活動でもよいし、何らかの意味で人を助けるような活動を行うことです。これも日常生活とは離れた活動になることが多いですから、かなりの努力をしないと続けられません。
この行動は、仏教などでの戒律を守り、善業(よい行為)が生じるように努力することと、同じことになります。善業が生じるように努力することは、よい行為(善業)が良い結果をもたらすというだけでなく、意識をポジティブな意識にするためでもあります。
ポジティブ意識になる行動は、善業が生じるように、意志して努力することであり、悪業を断滅するように、意志して努力することです。
解脱した状態の意識では、善業も悪業も積むことはありません。そこには善も悪もありません。
しかしその途中の段階では、悪業は解脱の障害となり、善業は助けとなります。
ですから、まず他者を愛し、助ける行為を行うことは重要です。
瞑想方法が発達しているのは、仏教(南伝仏教、チベット仏教)、ヨーガ(インドの各種修行)などです。修行としての瞑想以外にも、各種の瞑想法が工夫され伝えられています。
仏教の修行の目的は、ニルヴァーナへ到ること(解脱)です。一般的なポジティブ意識になることを目的とはしていません。そのため人生最大の目的がニルヴァーナ(解脱)であるという発想がないと、仏教の修行自体行う意義を見出すのが難しいかも知れません。
ヨーガなどのインドの多くの宗教的な修行の目的も解脱です。ヨーガやヴェーダンタ哲学関連の修行は仏教ではないので、解脱とは言いますがニルヴァーナへ到るというような言い方はしません。
仏教的な見地からみれば、仏教のニルヴァーナとヨーガなどのインドの宗教の解脱とは意味が違います。しかしその違いはどの程度のものか、どこが違うのか、違いは微妙であり、判断には高いレベルの修行成果が求められます。
一般的な仏教の修行などを行うにしても、その修行の結果が出てくるまでには、かなりの長い時間がかかるのが普通です。はじめてすぐに何らかの結果が出てくるような人はまれです。出家者でも、何年も、あるいは何十年も、一生かけても到達できるかどうかというようなものです。ニルヴァーナへ到ることは仏教の究極の目的ですから、これに価値を見出す場合には人生をかけなければできないのではないでしょうか。
一般の人が、ポジティブ意識になるためにする方法としては、かなりハードルが高く、取り組むことが難しいものになってしまいます。
瞑想でポジティブ意識になるといっても、瞑想方法にはいろいろなものがあります。どれが効果のあるものなのかの見極めがかなり難しいのです。
信頼できる先生について学ぶのでなければ、効果的な瞑想法を学べません。でなければ、何年もかけて瞑想を行っても、あまり効果がなかったということにもなりかねません。
座禅も瞑想法の一種といえますが、普通の人が取り組んで何かの効果をあげるには、少し困難があるようにも思われます。
瞑想をはじめても、宇宙との合一状態のようなサマーディにまで入れる人はまずいません。サマーディに入れるほどの深い瞑想状態に到達することは、何十年も瞑想を実践していても難しいことです。いつでもサマーディに入れるレベルまで到達できれば、ポジティブ意識を持つこともたやすいでしょう。ですが普通の人は、そうはいきません。
サマーディに到るような瞑想もするべきかもしれませんが、ポジティブな意識を持つためであれば、あまりに時間がかかりすぎます。そもそもサマーディには入れないかもしれません。
普通人は、もう少し誰でも取り組めることから、始めるしかありません。そのために慈悲の瞑想などがあります。これならば誰でも少し努力すればできることです。
この瞑想は自分の慈悲心を増大させるだけでなく、心を癒す働きもあります。
ポジティブ思考をしようと思っても、なかなかうまくいかない場合があります。心の中に、いろんなわだかまりやこだわり、悩みや怒り、恨みなどを抱えていると、なかなか前向きな思考ができません。
心の中に、いろいろな悩み、苦しみ、わだかまり、怒り、恨み、憎しみ、悲しみなどの感情がある場合、なかなか深い瞑想には入れません。
そんなときには、無理にポジティブ思考をしようをせず、まず視点を変えてみることが大事です。
そのような場合は、深い瞑想に入れるようになる前に、まず自分自身の心を癒すことからはじめましょう。顕在意識(表面意識)より深いところにある、潜在意識、深層意識にある心を癒しましょう。
慈悲の瞑想などを行い、少しでもポジティブ意識の状態になるように努力してみましょう。
少しでもポジティブ意識の状態になってからなら、ポジティブ思考することもたやすくなっているはずです。
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ホ・オポノポノなども、自分自身の心を癒すことに繋がります。慈悲の瞑想も、自分の心を癒すことになります。
ホ・オポノポノの、中核概念は、世の中(自分が体験する世界)に起こる全ての出来事(良いこと悪いことを含めて)は、自分自身の潜在意識のなかの記憶が再生されている事象であり、それは全て体験している、わたし自身が100%対処できるものとして関与しているもの(責任)である。
日本語で責任というと、「お前の責任だ」というような、相手に責任を押し付けるような言い方に聞こえますが、ここでの「責任」は、いわゆる日本語的な「責任」ではなく、対処出来るものとして関与できる、関与しているという意味合いで解釈します。
ホ・オポノポノにおける潜在意識は、ハワイ語で「ウニヒピリ」と呼ばれ、深層意識(インナーチャイルドと呼ばれています)と同義語として扱われています。厳密に言えば潜在意識と深層意識は分けるべきでしょうが、ここではどちらかというと、より深い潜在意識(深層意識)の意味で用いています。
実践方法はシンプルであり、問題を解決するために自分自身の潜在意識に、次の四つの言葉を繰り返すものです。
四つの言葉は、別の同じような意味の言葉に変えても、どの順番でもかまいません。さらに四つの言葉すべてを言わなくても、一番心にしっくりくる言葉だけでもよいのです。
「ごめんなさい」「許して下さい」「ありがとう」「愛しています」
これを伝えることで、潜在意識下の記憶が消去され、心が癒されます。この四つの言葉やクリーニングは、自分自身に対してまず行います。まず自分をしっかりと、クリーニングします。
ホ・オポノポノの世界観で、世の中を観て生き始めると、記憶は完全にはなくならないけれど、クリーニング以前のように、無意識に記憶にコントロールされてしまうということは減ってきます。
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行動でポジティブ意識になる方法についても考えて見ましょう。
行動でポジティブ意識になる方法というのは、人を傷つけるようなことをせず、人を助ける行動をとることです。人を助ける行動は、意識をポジティブな方向へと持っていきます。この行為は、ポジティブ意識の人が行う行為です。ボランティア活動でもよいし、何らかの意味で人を助けるような活動を行うことです。これも日常生活とは離れた活動になることが多いですから、かなりの努力をしないと続けられません。
この行動は、仏教などでの戒律を守り、善業(よい行為)が生じるように努力することと、同じことになります。善業が生じるように努力することは、よい行為(善業)が良い結果をもたらすというだけでなく、意識をポジティブな意識にするためでもあります。
ポジティブ意識になる行動は、善業が生じるように、意志して努力することであり、悪業を断滅するように、意志して努力することです。
解脱した状態の意識では、善業も悪業も積むことはありません。そこには善も悪もありません。
しかしその途中の段階では、悪業は解脱の障害となり、善業は助けとなります。
ですから、まず他者を愛し、助ける行為を行うことは重要です。
2011年7月19日火曜日
ポジティブ意識になるための方法(2)
四無量心(慈・悲・喜・捨)についても説明しておいたほうがよいでしょう。
誰でも自分の幸せをまず考えますから、慈悲の瞑想も自分の幸せを祈るところからはじめています。どのような人がいても、人間はあくまでも自分を中心として生きるしかありません。
自分の幸せも健康も願わずに、他の人の幸せと健康だけ願える人はまれでしょう。このようなことができる人は、まず普通人ではいないでしょう。
自分を愛するがゆえの人を愛する行為であり、自分の健康を願うがためゆえの人の健康をも祈るというのが、普通の人の正直な心です。普通の人の意識では、まず自分のことから始めるしかないのです。
したがって、まず自分が幸せになるように祈ります。そして自分の幸せのためには、他の人の幸せも祈ることが必要であることを知っていくのです。ですから慈悲の瞑想では、最初に自分の幸せを祈り、自分の中にやさしい心を作ることからはじめています。
仏教では、キリスト教のような「愛」という言葉を用いません。本来のキリスト教での「愛」は、無私の愛でしょうが、「愛」という言葉にはそれ以外の意味も含んでいます。
キリスト教では一言で「愛」といいますが、夫婦の愛、男女の愛、親子の愛では当然ちがっています。男女の愛にも、エロティックな愛もあれば、そうでない愛もあります。男女の愛でも、ただ愛という一語では表現できない微妙な差があります。このように、同じ「愛」という言葉を使っても、意味は使う文脈でいろいろと異なっています。
同じ「愛」という言葉でも、その意味は曖昧です。「愛」には、不確実性、多様性、複雑性などの曖昧さがあるのです。
仏教では「愛」という言葉を使わず、慈・悲・喜・捨の四つの感情として、人間の持つ自然な感情を育てていくことを目指しているのです。
ちなみに漢訳仏教経典では、「愛」という言葉がでてくると、キリスト教のような無私の愛という意味ではなく、「渇愛、執愛、愛執」というような、執着や愛着の意味で用いられています。漢訳経典を読む場合には、意味を取り違えないよう注意が必要です。
四無量心(慈・悲・喜・捨)の説明をしましょう。どうしても漢訳された、慈・悲・喜・捨という感じの意味に捕らわれてしまいますが、もともとの意味はつぎのようなことを指しています。
1.慈
慈は、慈しみや友情にちかい感情のことです。
他の人と仲良くしたいという感情です。人と仲良くしたい、多くの人と楽しく暮らしたいと思う感情、それが慈です。
2.悲
悲は、哀(憐)れみの感情です。
憐憫の感情であり、悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情です。だれかが困っていればすぐ助けに行ってあげる、そのときの助けに行くのは、誰にとっても気持がいいはずです。困っている人を助けてあげたいという感情は、人間であればいつも必要な感情です。
3.喜
喜は、ともに喜ぶ感情です。
人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情です。
しかし自分の回りのだれかが仕事が上手くいったり、人が大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりすると、すなおには喜べず、嫉妬という感情に苦しめられます。
この嫉妬という感情は持たないほうがいいものです。それだからこそ人が成功したならば、「ああ、よかった、よかった」とな喜ぶ感情を抱けるようにするのです。
4.捨
捨は、捨てさるという意味よりも、平等で冷静な感情を表します。
人間はどんな物ごとに対してもいろいろな感情を抱きます。そのいろいろな感情に流されないように戒めて、生命のすべてを見極める心のことです。
他の人が怒っていたり、悪いことをしても、そういう人たちに翻弄されてはいけません。様々な人がいますが、それらを放っておくことも大切なのです。悪をこらしめるというのではなく、ただ冷静な心になって、平等に見守っている、それが捨です。
四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想は、これら四つの感情をべつべつに育てることが目的です。
これらの四無量心(慈・悲・喜・捨)の感情は、私たちが生まれついて持っていたものではありません。瞑想によって、この四つの感情を習得し育てていくために、四無量心の冥想法があります。
これを簡略化したものが慈悲の瞑想です。
誰でも自分の幸せをまず考えますから、慈悲の瞑想も自分の幸せを祈るところからはじめています。どのような人がいても、人間はあくまでも自分を中心として生きるしかありません。
自分の幸せも健康も願わずに、他の人の幸せと健康だけ願える人はまれでしょう。このようなことができる人は、まず普通人ではいないでしょう。
自分を愛するがゆえの人を愛する行為であり、自分の健康を願うがためゆえの人の健康をも祈るというのが、普通の人の正直な心です。普通の人の意識では、まず自分のことから始めるしかないのです。
したがって、まず自分が幸せになるように祈ります。そして自分の幸せのためには、他の人の幸せも祈ることが必要であることを知っていくのです。ですから慈悲の瞑想では、最初に自分の幸せを祈り、自分の中にやさしい心を作ることからはじめています。
仏教では、キリスト教のような「愛」という言葉を用いません。本来のキリスト教での「愛」は、無私の愛でしょうが、「愛」という言葉にはそれ以外の意味も含んでいます。
キリスト教では一言で「愛」といいますが、夫婦の愛、男女の愛、親子の愛では当然ちがっています。男女の愛にも、エロティックな愛もあれば、そうでない愛もあります。男女の愛でも、ただ愛という一語では表現できない微妙な差があります。このように、同じ「愛」という言葉を使っても、意味は使う文脈でいろいろと異なっています。
同じ「愛」という言葉でも、その意味は曖昧です。「愛」には、不確実性、多様性、複雑性などの曖昧さがあるのです。
仏教では「愛」という言葉を使わず、慈・悲・喜・捨の四つの感情として、人間の持つ自然な感情を育てていくことを目指しているのです。
ちなみに漢訳仏教経典では、「愛」という言葉がでてくると、キリスト教のような無私の愛という意味ではなく、「渇愛、執愛、愛執」というような、執着や愛着の意味で用いられています。漢訳経典を読む場合には、意味を取り違えないよう注意が必要です。
四無量心(慈・悲・喜・捨)の説明をしましょう。どうしても漢訳された、慈・悲・喜・捨という感じの意味に捕らわれてしまいますが、もともとの意味はつぎのようなことを指しています。
1.慈
慈は、慈しみや友情にちかい感情のことです。
他の人と仲良くしたいという感情です。人と仲良くしたい、多くの人と楽しく暮らしたいと思う感情、それが慈です。
2.悲
悲は、哀(憐)れみの感情です。
憐憫の感情であり、悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情です。だれかが困っていればすぐ助けに行ってあげる、そのときの助けに行くのは、誰にとっても気持がいいはずです。困っている人を助けてあげたいという感情は、人間であればいつも必要な感情です。
3.喜
喜は、ともに喜ぶ感情です。
人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情です。
しかし自分の回りのだれかが仕事が上手くいったり、人が大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりすると、すなおには喜べず、嫉妬という感情に苦しめられます。
この嫉妬という感情は持たないほうがいいものです。それだからこそ人が成功したならば、「ああ、よかった、よかった」とな喜ぶ感情を抱けるようにするのです。
4.捨
捨は、捨てさるという意味よりも、平等で冷静な感情を表します。
人間はどんな物ごとに対してもいろいろな感情を抱きます。そのいろいろな感情に流されないように戒めて、生命のすべてを見極める心のことです。
他の人が怒っていたり、悪いことをしても、そういう人たちに翻弄されてはいけません。様々な人がいますが、それらを放っておくことも大切なのです。悪をこらしめるというのではなく、ただ冷静な心になって、平等に見守っている、それが捨です。
四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想は、これら四つの感情をべつべつに育てることが目的です。
これらの四無量心(慈・悲・喜・捨)の感情は、私たちが生まれついて持っていたものではありません。瞑想によって、この四つの感情を習得し育てていくために、四無量心の冥想法があります。
これを簡略化したものが慈悲の瞑想です。
2011年7月17日日曜日
ポジティブ意識になるための方法(1)
どうやったらポジティブ意識になれるのでしょうか。ポジティブ意識になる方法はあるのでしょうか。よく考えると、ポジティブ意識になる方法はあるのでしょうか。ポジティブ意識になるための、具体的な方法があまりないために、その意識状態になるのは難しいのです。
そこで、ポジティブ意識になる方法の前に、まずポジティブ思考になるにはどうしたらよいかについて考えて見ることにしましょう。
自分がネガティブ思考であったことに気づき、ポジティブ思考になろうと考えた場合には、どうしたらよいでしょうか。ポジティブ思考になるためには、顕在意識(普通の表面意識)で自己を奮い立たせて、前向きに考えよう、積極的に取り組もう、と懸命に努力するということになります。何か問題となるような、普通の意味での悪い出来事があったとしても、この事件からどこかに学ぶべきことはないかと考えて、良い面を探し出す努力をするというようなことです。
こういう努力を何度も繰り返し、最終的に普段の思考の習慣化にまで持っていくということになるでしょう。ポジティブ思考を潜在意識に植えつけるためには、イメージトレーニングのようなことも考えられるでしょう。
ポジティブ思考をしようと思っても、怒りや恨みの念を抱いていると、なかなか顕在意識(表面意識)で前向きに考えようとしても、難しい場合があります。理不尽な酷い仕打ちを受けたなどの場合に、その怒りや恨みの気持ちを克服するのは、かなり難しい場合があります。ポジティブな思考に向かわせるためには、顕在意識(表面意識)での意識的な努力を、歯を食いしばってもひたすら続ける以外にありません。
基本的にポジティブ思考になるには、顕在意識(表面意識)での意識的な努力に尽きるように思われます。
意識的な努力が主なポジティブ思考とは違って、潜在意識に深く根付いたポジティブ意識には、どうやったらなれるのでしょうか。意識的な努力が行いにくいため、どうしたらよいのかが難しいのです。ポジティブ意識になるための、具体的な自分でできる方法がないのです。
例えば、ポジティブな意識になろう、ポジティブな意識を高めようと思った場合を考えます。しかしながら、ポジティブ意識になるためには、顕在意識(表面意識)でポジティブになろうと思っただけでよいのでしょうか。他者との一体感を感じるような利他的なポジティブ意識には、表面意識で努力できるような具体性があまりないのです。これでは、どうしてよいのか分りません。
とりあえず、まずポジティブ思考をするように一生懸命に努力することはできます。ですが、これは本質的なポジティブ意識とは違います。ポジティブ思考ができても、ポジティブ意識になるとは限りません。利己的なネガティブ意識のまま、ポジティブ思考(前向きに)をしているのかも知れません。
もっと直接的にポジティブ意識にもっていくような方法が必要になります。
そこでポジティブ意識にもっていく方法には、どんなものが考えられるでしょうか。顕在意識(表面意識)での意識的な努力は、あまり効果があるようには思えません。
するとポジティブ意識に持っていく方法としては、瞑想と実践的な行動しかないのではないでしょうか。
・瞑想
・行動
瞑想について考えて見ましょう。瞑想の仕方には、実に多くの種類があります。どういう瞑想がポジティブ意識にむすびつくのか考えて見ましょう。
瞑想でのサマーディの体験(すべてとの合一体験)が、ポジティブな意識と関係が深いことです。瞑想をはじめてすぐに、すべてとの合一状態に至るサマーディ体験が得られれば、自分と他者とが一体であるという、ポジティブな意識にすぐなれるでしょう。
しかし、普通は瞑想を始めても、そう簡単にサマーディ状態などには入れません。ヨーガの行者が
長い修行の末に、やっと到達できるかもしれないような状態です。ヨーガ行者でも到達できないかもしれません。
サマーディに達しなければポジティブな意識になれないのであれば、一般人には一生かかっても、ポジティブな意識になろうという努力だけで終わってしまうかもしれません。これでは努力のしがいがないと言わざるを得ません。
解脱を求めるならば、サマーディに到る瞑想に挑戦すべきでしょう。しかしポジティブな意識を持つためにする方法としては、サマーディに到る瞑想はハードルが高すぎます。
誰でもある程度努力すれば、ポジティブな意識を獲得できるような方法でなければ、一般人向きの方法ではありません。もっと瞑想の初心者でも、効果のある方法はないでしょうか。
そこで調べてみると、仏教に「慈悲の瞑想」と呼ばれる方法があることが分りました。慈悲の心は仏教の修行に役立つのです。
普通、人は、自分は個別の「存在」だと思っています。全部と繋がっているというような、統合された全体的な意識は感じていません。個別の「私」という存在を感じています。
「私は」と思うことにより、この宇宙全体にみなぎる生命のエネルギーと自分とは、別なものであり、自分は個別的な存在だと思います。そこから、自分と他者とを区別し、区別することによって、人間の苦悩として、いろいろな問題が生じてきます。
しかし、この「私」という個体があるという実感は、実に強烈な感覚なので、なかなか消えるものではありません。五感では、誰かが体に触ったら「触られた」と感じるし、暑い空気が体に触れたら「暑い」と感じます。音や光も、個体の肉体が五感を通して感じます。これらは自分は、他者とは違う個別の人間(個体)であるという個別意識を助長します。
ではどうすれば、自分と他者とを区別せず、慈悲の心を持てるでしょうか。そのための1つの方法として、慈悲の瞑想があります。
このような慈悲の瞑想を行うと、他者への慈しみの念が湧いてくるようになるでしょう。この他者への慈しみは、ポジティブな意識を持つための基礎になるでしょう。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
慈悲の瞑想は、南伝仏教で、四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想からでてきた瞑想です。
日本テーラワーダ仏教協会や上座仏教修道会などで使われている方法です。
慈悲の瞑想のやり方は、次の4段階で、慈悲の言葉を唱えて、心にしみこんでいくように念じていきます。
言葉は、静かに心にしみこんでいくように、丁寧に丹念に念じます。一人で実践するときは、声を出さなくてかまいません。
姿勢は、背筋と頭をまっすぐにして、目を閉じて下さい。
1.自分自身への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
2.自分の周りの親しい人(両親、友人、子供等)への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
3.全ての生命(生きとし生けるもの)への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
4.自分が嫌いな人、嫌っていると思われる人への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
自分が嫌いな人のことを、心に思い浮かべて、慈悲の瞑想を実践します。
さらに、自分のことを嫌っていると思われる人のことを、心に思い浮かべて、慈悲の瞑想を実践します。
1から3までは、誰でも比較的抵抗がなく、慈悲の瞑想が行えると思います。
しかし、4については、怒りや恨み、憎しみを抱くような、酷いことをされた相手に対しても、慈悲の瞑想を行わなければなりません。このような憎むべき相手に対して幸せを祈るという行為は、心の中に強い抵抗が生じることがあります。その心の中の抵抗を乗り越えて、慈悲の瞑想を続けていくと、心の中にあった怒り、恨み、憎しみが薄らいでくることが分ります。それだけの酷い状況に合っても、心の抵抗を乗り越えたことは、深い慈悲の心を持てるようになり、心の強さにもつながります。
長く続けていると、最終的には、心の中にあった怒り、恨み、憎しみの念もなくなっていくでしょう。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
唱える言葉
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1.自分自身への慈悲の瞑想
・私は幸せでありますように
・私の悩み苦しみがなくなりますように
・私の願いごとが叶えられますように
・私に悟りの光が現れますように
・私は幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。
2.自分の周りの親しい人への慈悲の瞑想
・私の親しい人が幸せでありますように
・私の親しい人の悩み苦しみがなくなりますように
・私の親しい人の願いごとが叶えられますように
・私の親しい人にも悟りの光が現れますように
・私の親しい人が幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。
3.生きとし生けるものへの慈悲の瞑想
・生きとし生けるものが幸せでありますように
・生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
・生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
・生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
・生きとし生けるものが幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。
4.嫌いな人と嫌っている人への慈悲の瞑想
・私の嫌いな人も幸せでありますように
・私の嫌いな人の悩み苦しみがなくなりますように
・私の嫌いな人の願い事が叶えられますように
・私の嫌いな人にも悟りの光が現れますように
・私を嫌っている人も幸せでありますように
・私を嫌っている人の悩み苦しみがなくなりますように
・私を嫌っている人の願い事が叶えられますように
・私を嫌っている人にも悟りの光が現れますように
ここまでを3回繰り返す。
5.最後の生きとし生けるものへの慈悲の瞑想
・生きとし生けるものが幸せでありますように
最後にこれを3回繰り返す。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
仏教に限りませんが、伝統的な宗教の修行の中には、このようなポジティブな意識へと向けるような修行内容も含まれています。怒りや恨みのためポジティブ思考になかなかなれなかった人でも、このような方法で自分の中のマイナスの感情を浄化していくことで、次第にポジティブな意識へと向けていくことができます。ポジティブな意識になれば、ポジティブ思考することも、よりたやすくなっていくように思われます。
ポジティブな意識を持ち、ポジティブな意識を高めていくことには、それなりの努力を要するものと思われます。
そこで、ポジティブ意識になる方法の前に、まずポジティブ思考になるにはどうしたらよいかについて考えて見ることにしましょう。
自分がネガティブ思考であったことに気づき、ポジティブ思考になろうと考えた場合には、どうしたらよいでしょうか。ポジティブ思考になるためには、顕在意識(普通の表面意識)で自己を奮い立たせて、前向きに考えよう、積極的に取り組もう、と懸命に努力するということになります。何か問題となるような、普通の意味での悪い出来事があったとしても、この事件からどこかに学ぶべきことはないかと考えて、良い面を探し出す努力をするというようなことです。
こういう努力を何度も繰り返し、最終的に普段の思考の習慣化にまで持っていくということになるでしょう。ポジティブ思考を潜在意識に植えつけるためには、イメージトレーニングのようなことも考えられるでしょう。
ポジティブ思考をしようと思っても、怒りや恨みの念を抱いていると、なかなか顕在意識(表面意識)で前向きに考えようとしても、難しい場合があります。理不尽な酷い仕打ちを受けたなどの場合に、その怒りや恨みの気持ちを克服するのは、かなり難しい場合があります。ポジティブな思考に向かわせるためには、顕在意識(表面意識)での意識的な努力を、歯を食いしばってもひたすら続ける以外にありません。
基本的にポジティブ思考になるには、顕在意識(表面意識)での意識的な努力に尽きるように思われます。
意識的な努力が主なポジティブ思考とは違って、潜在意識に深く根付いたポジティブ意識には、どうやったらなれるのでしょうか。意識的な努力が行いにくいため、どうしたらよいのかが難しいのです。ポジティブ意識になるための、具体的な自分でできる方法がないのです。
例えば、ポジティブな意識になろう、ポジティブな意識を高めようと思った場合を考えます。しかしながら、ポジティブ意識になるためには、顕在意識(表面意識)でポジティブになろうと思っただけでよいのでしょうか。他者との一体感を感じるような利他的なポジティブ意識には、表面意識で努力できるような具体性があまりないのです。これでは、どうしてよいのか分りません。
とりあえず、まずポジティブ思考をするように一生懸命に努力することはできます。ですが、これは本質的なポジティブ意識とは違います。ポジティブ思考ができても、ポジティブ意識になるとは限りません。利己的なネガティブ意識のまま、ポジティブ思考(前向きに)をしているのかも知れません。
もっと直接的にポジティブ意識にもっていくような方法が必要になります。
そこでポジティブ意識にもっていく方法には、どんなものが考えられるでしょうか。顕在意識(表面意識)での意識的な努力は、あまり効果があるようには思えません。
するとポジティブ意識に持っていく方法としては、瞑想と実践的な行動しかないのではないでしょうか。
・瞑想
・行動
瞑想について考えて見ましょう。瞑想の仕方には、実に多くの種類があります。どういう瞑想がポジティブ意識にむすびつくのか考えて見ましょう。
瞑想でのサマーディの体験(すべてとの合一体験)が、ポジティブな意識と関係が深いことです。瞑想をはじめてすぐに、すべてとの合一状態に至るサマーディ体験が得られれば、自分と他者とが一体であるという、ポジティブな意識にすぐなれるでしょう。
しかし、普通は瞑想を始めても、そう簡単にサマーディ状態などには入れません。ヨーガの行者が
長い修行の末に、やっと到達できるかもしれないような状態です。ヨーガ行者でも到達できないかもしれません。
サマーディに達しなければポジティブな意識になれないのであれば、一般人には一生かかっても、ポジティブな意識になろうという努力だけで終わってしまうかもしれません。これでは努力のしがいがないと言わざるを得ません。
解脱を求めるならば、サマーディに到る瞑想に挑戦すべきでしょう。しかしポジティブな意識を持つためにする方法としては、サマーディに到る瞑想はハードルが高すぎます。
誰でもある程度努力すれば、ポジティブな意識を獲得できるような方法でなければ、一般人向きの方法ではありません。もっと瞑想の初心者でも、効果のある方法はないでしょうか。
そこで調べてみると、仏教に「慈悲の瞑想」と呼ばれる方法があることが分りました。慈悲の心は仏教の修行に役立つのです。
普通、人は、自分は個別の「存在」だと思っています。全部と繋がっているというような、統合された全体的な意識は感じていません。個別の「私」という存在を感じています。
「私は」と思うことにより、この宇宙全体にみなぎる生命のエネルギーと自分とは、別なものであり、自分は個別的な存在だと思います。そこから、自分と他者とを区別し、区別することによって、人間の苦悩として、いろいろな問題が生じてきます。
しかし、この「私」という個体があるという実感は、実に強烈な感覚なので、なかなか消えるものではありません。五感では、誰かが体に触ったら「触られた」と感じるし、暑い空気が体に触れたら「暑い」と感じます。音や光も、個体の肉体が五感を通して感じます。これらは自分は、他者とは違う個別の人間(個体)であるという個別意識を助長します。
ではどうすれば、自分と他者とを区別せず、慈悲の心を持てるでしょうか。そのための1つの方法として、慈悲の瞑想があります。
このような慈悲の瞑想を行うと、他者への慈しみの念が湧いてくるようになるでしょう。この他者への慈しみは、ポジティブな意識を持つための基礎になるでしょう。
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慈悲の瞑想は、南伝仏教で、四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想からでてきた瞑想です。
日本テーラワーダ仏教協会や上座仏教修道会などで使われている方法です。
慈悲の瞑想のやり方は、次の4段階で、慈悲の言葉を唱えて、心にしみこんでいくように念じていきます。
言葉は、静かに心にしみこんでいくように、丁寧に丹念に念じます。一人で実践するときは、声を出さなくてかまいません。
姿勢は、背筋と頭をまっすぐにして、目を閉じて下さい。
1.自分自身への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
2.自分の周りの親しい人(両親、友人、子供等)への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
3.全ての生命(生きとし生けるもの)への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
4.自分が嫌いな人、嫌っていると思われる人への慈悲の瞑想(幸福を願う)行う。
自分が嫌いな人のことを、心に思い浮かべて、慈悲の瞑想を実践します。
さらに、自分のことを嫌っていると思われる人のことを、心に思い浮かべて、慈悲の瞑想を実践します。
1から3までは、誰でも比較的抵抗がなく、慈悲の瞑想が行えると思います。
しかし、4については、怒りや恨み、憎しみを抱くような、酷いことをされた相手に対しても、慈悲の瞑想を行わなければなりません。このような憎むべき相手に対して幸せを祈るという行為は、心の中に強い抵抗が生じることがあります。その心の中の抵抗を乗り越えて、慈悲の瞑想を続けていくと、心の中にあった怒り、恨み、憎しみが薄らいでくることが分ります。それだけの酷い状況に合っても、心の抵抗を乗り越えたことは、深い慈悲の心を持てるようになり、心の強さにもつながります。
長く続けていると、最終的には、心の中にあった怒り、恨み、憎しみの念もなくなっていくでしょう。
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唱える言葉
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1.自分自身への慈悲の瞑想
・私は幸せでありますように
・私の悩み苦しみがなくなりますように
・私の願いごとが叶えられますように
・私に悟りの光が現れますように
・私は幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。
2.自分の周りの親しい人への慈悲の瞑想
・私の親しい人が幸せでありますように
・私の親しい人の悩み苦しみがなくなりますように
・私の親しい人の願いごとが叶えられますように
・私の親しい人にも悟りの光が現れますように
・私の親しい人が幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。
3.生きとし生けるものへの慈悲の瞑想
・生きとし生けるものが幸せでありますように
・生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
・生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
・生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
・生きとし生けるものが幸せでありますように
ここまでを3回繰り返す。
4.嫌いな人と嫌っている人への慈悲の瞑想
・私の嫌いな人も幸せでありますように
・私の嫌いな人の悩み苦しみがなくなりますように
・私の嫌いな人の願い事が叶えられますように
・私の嫌いな人にも悟りの光が現れますように
・私を嫌っている人も幸せでありますように
・私を嫌っている人の悩み苦しみがなくなりますように
・私を嫌っている人の願い事が叶えられますように
・私を嫌っている人にも悟りの光が現れますように
ここまでを3回繰り返す。
5.最後の生きとし生けるものへの慈悲の瞑想
・生きとし生けるものが幸せでありますように
最後にこれを3回繰り返す。
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仏教に限りませんが、伝統的な宗教の修行の中には、このようなポジティブな意識へと向けるような修行内容も含まれています。怒りや恨みのためポジティブ思考になかなかなれなかった人でも、このような方法で自分の中のマイナスの感情を浄化していくことで、次第にポジティブな意識へと向けていくことができます。ポジティブな意識になれば、ポジティブ思考することも、よりたやすくなっていくように思われます。
ポジティブな意識を持ち、ポジティブな意識を高めていくことには、それなりの努力を要するものと思われます。
2011年7月15日金曜日
審神者の仕方
チャネリングの内容が信じるに値するかどうかについて考えてみたいと思います。
もし、ある人が口はうまくても内容が嘘であったら、誰もその人のことは信じなくなります。その人の語る言葉が、本当のこと(事実と一致すること)であるからこそ、周りの人々はその人物を信用することができるのです。
チャネリングについても、それと全く同じことが言えます。チャネリングを通じて語られる内容が、本当であるか(事実と一致しているか)どうかをみるということです。チャネリングの真偽は、チャネラーを通じて語られる内容が、事実であるかどうかによって、最終的に決められるのです。
これを神道では、審神者(さにわ)と呼びます。出てきた霊の真偽を判定する行為のことです。
ところが、こうしたあまりにも当たり前のことが、チャネリングのような外国から来たものでは、おろそかにされることが多くあります。チャネリングでは、クライアント側はどうしたらよいのか、とたんに分からなくなってしまうのです。
この理由の一つは、どうやって真偽を見分けるのかというようなことを丁寧に指導してくれる人がいないからでもあります。チャネラーの述べる神様からのメッセージに対して、真偽を確かめるなどという大それたことは、とても自分にはできるはずがないと思い込んでしまうのです。
もうひとつの理由は、あるいは最初からそのチャネラーのことを信じてしまっており、本物かどうかの判定が必要だということまで考えが及ばないからでもあります。
世に出ているチャネラーからのメッセージを聞く場合には、その内容の真偽を確認するのは当然のことです。別の世界からのメッセージで成り立っているチャネリングでは、メッセージとチャネラーの真偽をチェックすることは基本中の基本ということになります。
もし、ある人が口はうまくても内容が嘘であったら、誰もその人のことは信じなくなります。その人の語る言葉が、本当のこと(事実と一致すること)であるからこそ、周りの人々はその人物を信用することができるのです。
チャネリングについても、それと全く同じことが言えます。チャネリングを通じて語られる内容が、本当であるか(事実と一致しているか)どうかをみるということです。チャネリングの真偽は、チャネラーを通じて語られる内容が、事実であるかどうかによって、最終的に決められるのです。
これを神道では、審神者(さにわ)と呼びます。出てきた霊の真偽を判定する行為のことです。
ところが、こうしたあまりにも当たり前のことが、チャネリングのような外国から来たものでは、おろそかにされることが多くあります。チャネリングでは、クライアント側はどうしたらよいのか、とたんに分からなくなってしまうのです。
この理由の一つは、どうやって真偽を見分けるのかというようなことを丁寧に指導してくれる人がいないからでもあります。チャネラーの述べる神様からのメッセージに対して、真偽を確かめるなどという大それたことは、とても自分にはできるはずがないと思い込んでしまうのです。
もうひとつの理由は、あるいは最初からそのチャネラーのことを信じてしまっており、本物かどうかの判定が必要だということまで考えが及ばないからでもあります。
世に出ているチャネラーからのメッセージを聞く場合には、その内容の真偽を確認するのは当然のことです。別の世界からのメッセージで成り立っているチャネリングでは、メッセージとチャネラーの真偽をチェックすることは基本中の基本ということになります。
1.メッセージの内容に意図的に盛り込む嘘
まず最初のチャネリングの嘘を見破る方法は、メッセージの中に意図的に盛り込む少し(1割以下)の嘘の部分を、いかに的確に見抜くかという点にあります。
巧妙な物の怪(魑魅魍魎、悪霊)は、メッセージの大部分(9割以上)の内容は真実を述べていることが多いのです。物の怪も、チャネリングでクライアントにとっての真実や、霊的な真理を述べて信用させます。
その真実の部分を含むことで信用させ、メッセージを悪用していきます。それはメッセージの内容に、意図的におかしい部分を少しだけまぜることで行います。メッセージに真実が含まれていたために、そのおかしい部分まで、本当のことであると信じてしまうようにさせるのです。
これが物の怪(魑魅魍魎、悪霊)の取る、代表的な騙しのテクニック(手口)です。
この少しのメッセージの中のおかしい部分が、大変に大事な部分です。意図的に盛り込むメッセージの中に、いままでの何かを根本から引っ繰り返すような内容が込められていいます。
そのたった1割以下にすぎないおかしい部分でも、メッセージ全体の最終的な方向性が決められてしまうのです。メッセージの重大性という点からは、そのおかしい部分は、1割よりも、もっとっずっと大きな割合を占めているといえます。
そのためには、告げられたメッセージを、全体的な観点から検証しなければならなりません。
クライアントにとっての個人的な真実は、真偽が分りやすいでしょう。分りやすい部分には、嘘は混ぜないことが多いと思われます、ですから、メッセージの中の霊的真理に注目した方が良いかもしれません。
霊的な真理と思われるものと、異なる内容がメッセージにあった場合、それがチャネラーの単なる未熟さから出たものなのか、あるいは意図的に仕組んだものなのかを判断していかなければなりません。意図的に仕組んだものであると考えられた場合には、そのメッセージ全体を信用するべきではありません。そのチャネラーもメッセージも偽物として捨て去るべきものです。
こうした鋭い洞察力が審神者(さにわ)には要求されるため、なかなか真偽の判定は、難しいのです。
2.チャネラーの現実の行動や生活態度
次のチャネリングの嘘を見抜くための方法は、チャネラーの現実の行動や生活態度を観察し、チャネリングの内容を検証することがあります。
チャネリングのメッセージに表れる嘘は、大変に巧妙なものです。見抜くためには、それを語るチャネラーの実際の行動や生活態度を注意深く観察することが求められます。
誰でも、口先では言葉だけでは立派なことが言えます。しかし、それが本心でないときには、現実の行動や生活の中で、必ずおかしな点が出るものなのです。
その人間の本性は、特に金銭に対する姿勢や名誉心などに端的に現れます。
もし、相手が初心者のチャネラーならば、ひたすら謙虚に自分の利益を求めることなく、人々のために精いっぱいの奉仕をするべきです。これによってのみ、真偽が判断されることになります。
一度、会っただけでは、そのチャネラーの現実の行動や生活態度を検証することが難しい場合もあります。その場合は、保留にしておくしかないでしょう。
2011年7月13日水曜日
「人間は神である」という意味
あるチャネラーが、「人間は神である」と言いました。
私もその言葉の内容自体は否定しませんし、言われた時点では、なるほどとも思いました。私も人間の中には、神性(仏性)とでもいうべきものが存在していると思っています。
しかしながら、私の思う「人間は神である」という意味とは、そのチャネラーのいう「人間は神である」という意味とは、かなりニュアンスの異なる言葉でした。
私のいう「人間は神である」という意味は、人間の中に本来ある神性(仏性)が、その人の魂の奥から表に出るように、自己を磨くことにより、魂を輝かせるというような意味です。
ところで、このチャネラーの言っている「人間は神である」という意味は、どうも違う意味に捉えられました。このチャネラーにとっては、自分の好き勝手に現実を操作できることを指して、「人間は神である」と言っていることが、話の内容から分ったのです。
つまり、「人間は万能の神のように、すきなように現実を変え、思い通りに現実世界を操作できる」ということなのです。現実世界を好きなように操作できるということに、このチャネラーの言うことのポイントはあるのですね。
このチャネラーの「人間は神である」という言葉からは、あまりにも明確に、このチャネラーがネガティブ意識の人間であることが明らかとなってしまいました。
ネガティブ意識の人間は、利用価値があれば、他者を自分の意志に沿うように操作(コントロール)し、支配しようとするのです。ネガティブ意識の人間は、どこまでいっても自分と他者との間には、はっきりとした区別があります。他者は利用すべき対象ではあっても、あくまで大切に取り扱うべき自分自身ではないのです。
ネガティブ意識とは、ネガティブ思考ということではありません。ネガティブ意識でも、ポジティブ思考で社会的に活躍している人は多くいます。ネガティブ意識とは、他者と自分とを厳然と区別し、自己のみへ奉仕する者のことです。ネガティブ意識の人間は、基本的に自己への奉仕者ですから。
もしこのチャネラーのような、わがままで身勝手な人間の思うままの世界が、もし出現したとするなら、それは天国ではなく、地獄となるのではないでしょうか。
その世界を作った、わがままで身勝手な人間にとってだけは、天国といえても、他の人にとってはその世界は地獄そのものでしょう。
自分だけが好き勝手なことができる世界、それは独裁者の世界にすぎません。このチャネラーの考える神とは、そんな程度のレベルの低い存在なのかということです。
こんな世界は、私の意味するところの神の世界ではありません。
神は人間を思い通りに操作もしなければ、好き勝手なことをする存在でもありません。
それは厳しい神律に反します。神律に反したことを神は、行いませんし、行えません。
このチャネラーにとっての神性は、自分の中にある魂を磨きに磨き、高めに高めて、できるだけ輝かせるという意味ではないのです。
神からも「何とすばらしい人であることか」と感嘆されるような行動を取れる人こそが、「人間は神である」といわれるにふさわしい人でしょう。
これこそ、神からも祀られる人である、と言えます。
私もその言葉の内容自体は否定しませんし、言われた時点では、なるほどとも思いました。私も人間の中には、神性(仏性)とでもいうべきものが存在していると思っています。
しかしながら、私の思う「人間は神である」という意味とは、そのチャネラーのいう「人間は神である」という意味とは、かなりニュアンスの異なる言葉でした。
私のいう「人間は神である」という意味は、人間の中に本来ある神性(仏性)が、その人の魂の奥から表に出るように、自己を磨くことにより、魂を輝かせるというような意味です。
ところで、このチャネラーの言っている「人間は神である」という意味は、どうも違う意味に捉えられました。このチャネラーにとっては、自分の好き勝手に現実を操作できることを指して、「人間は神である」と言っていることが、話の内容から分ったのです。
つまり、「人間は万能の神のように、すきなように現実を変え、思い通りに現実世界を操作できる」ということなのです。現実世界を好きなように操作できるということに、このチャネラーの言うことのポイントはあるのですね。
このチャネラーの「人間は神である」という言葉からは、あまりにも明確に、このチャネラーがネガティブ意識の人間であることが明らかとなってしまいました。
ネガティブ意識の人間は、利用価値があれば、他者を自分の意志に沿うように操作(コントロール)し、支配しようとするのです。ネガティブ意識の人間は、どこまでいっても自分と他者との間には、はっきりとした区別があります。他者は利用すべき対象ではあっても、あくまで大切に取り扱うべき自分自身ではないのです。
ネガティブ意識とは、ネガティブ思考ということではありません。ネガティブ意識でも、ポジティブ思考で社会的に活躍している人は多くいます。ネガティブ意識とは、他者と自分とを厳然と区別し、自己のみへ奉仕する者のことです。ネガティブ意識の人間は、基本的に自己への奉仕者ですから。
もしこのチャネラーのような、わがままで身勝手な人間の思うままの世界が、もし出現したとするなら、それは天国ではなく、地獄となるのではないでしょうか。
その世界を作った、わがままで身勝手な人間にとってだけは、天国といえても、他の人にとってはその世界は地獄そのものでしょう。
自分だけが好き勝手なことができる世界、それは独裁者の世界にすぎません。このチャネラーの考える神とは、そんな程度のレベルの低い存在なのかということです。
こんな世界は、私の意味するところの神の世界ではありません。
神は人間を思い通りに操作もしなければ、好き勝手なことをする存在でもありません。
それは厳しい神律に反します。神律に反したことを神は、行いませんし、行えません。
このチャネラーにとっての神性は、自分の中にある魂を磨きに磨き、高めに高めて、できるだけ輝かせるという意味ではないのです。
神からも「何とすばらしい人であることか」と感嘆されるような行動を取れる人こそが、「人間は神である」といわれるにふさわしい人でしょう。
これこそ、神からも祀られる人である、と言えます。
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